親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

どんな先見性のある人でも見落としている「人生の死角」とは

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【生死の一大事(1)】


私は毎日のメルマガを、朝8時に配信されるように、

前日に書き上げ、配信予約しています。

今から約6年前、東日本大震災のあった3月11日も、

午前中に、翌日の朝8時に配信されるメルマガをセットしてから

昼に浦安で人と会い、その浦安で地震が起きました。

 

交通機関が麻痺する中、なんとか帰宅したのが夜中の1時。

翌朝、配信予約していたメルマガが、

読者の方に一斉に配信されました。

その内容は夫婦間の人間関係の内容でしたので、

配信された後、何人かの読者の方から

「こんな国難の時期にあなたはこんなことしか書くことないのか」

とお叱りいただきました。

確かにご指摘の通りで、夜中に帰宅した後、

配信予約解除しなければならなかったと反省いたしました。

 

配信予約は便利なのですが、予約した後に

思いも寄らぬ大事(全てのテレビがその報道一色になるようなこと)

が起きて、国民の関心がそれ一つになったような時に、

不適切な内容を配信してしまうこともありますので、

気を付けなければなりません。

 

場合によっては、配信予約してから、

みなさんのお手元にメルマガが届く翌朝8時までの間に

私が不慮の事故などで「死ぬ」ということもあり得ます。

そうなると、死んだ人から、

「おはようございます、菊谷隆太です」と届き、

「最近、何々に凝ってます」とか

「今月はこんなことに心がけます」とか、

近況などの書かれた内容をみなさんは読まれることになるのです。

 

縁起でもないことを、と思われる方もあるかも知れませんが、

一億総情報発信時代で、SNS、ブログで自らの日常を

発信する時代ですから、今後そういうことは

「よくあること」になっていくでしょう。

 

以前、ガンにかかった人から聞いたことですが、

その方は治療していた時期、励みになるからと、

ガンの闘病患者のブログを読み始めたそうですが、

ブログが突如終わったりすることがあったそうです。

その後、家族が代筆して本人の死を書き込んだりすることがあり、

怖かった、と言われていました。

 

つい先日も18歳のアイドルの急死が報道されましたが

亡くなる前日もSNSで近況をアップしていたとのこと。

毎日「どこへ行った」とか「何食べた」とか、

「今度こんな仕事します」とか、「今後の目標はこうだ」など

アップして、彼女の日常が連綿と流れていたそのSNSは、

突然ぷつんと断ちきられました。

 

SNSには、その人の言葉と写真とで、その人の日常が綴られ、

一人一人に、人生のドラマが次々と展開されていき、

時にそれを見て応援したくなったり、憧れたりします。

ただ映画やテレビのドラマと違うのは、ドラマなら、

クライマックス、エンディングと進んで一件落着ですが、

現実の人生の場合はそうではない、

何の前触れもなく、死によって突然終わるのです。

没頭して観ていた映画が、突然の停電で終わってしまうように、

テレビで観ていたドラマが、突然、誰かにコンセントを抜かれて

終わってしまうように、

「今からいいとこだったのに」といった、こちらの都合は

全くお構いなしに、人生は終わるのです。

その突然の瞬間はいつやってくるか、誰も予測が立ちません。

 

昨日から今日、今日から明日、

昨年から今年、今年から来年と

私たちが進む人生行路の前途には、目先のことでも、

やりたいこともあれば、やらねばならないこともある、

長期的展望に立って、目指す目標や準備している案件もあり、

あれこれ智恵を絞って進んでいくのですが、

その私たちの背中に「死」が隠れています。

ぴたっと後ろに寄り添って、ある瞬間に、

それは突如眼前に現われるのです。

しっかり先を見据えて真摯に人生行路を進んでいる人でも

見落としている、いわば、人生の死角です。

だから皆、全くの想定外の事態に、

ただ呆然自失するしかないのです。

 

シッダルタ太子(のちのお釈迦さま)が、

人生の死角となっている「死」の大問題に驚き、

その解決の道を求めて城を出られたのが29歳の時でした。

そして35歳、その生死の大問題を解決されて

ブッダとなられ、説かれた教えが仏教です。

キリスト教の神と、仏教の仏とは、どこがどう違うのか

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【仏(1)】

 

仏教講座でよく聞かれる質問に

「神と仏はどう違うのですか」というのがあります。

「神仏」という単語もあるので、

同じようなものだろうと思っている人が多いようです。

「神」と「仏」はどう違うのか、これを知ることは

仏教を学ぶ上で大切ですから、大事な質問です。

 

仏教では「仏」といい、キリスト教では「神」といい、

いずれも「大宇宙の偉大なパワー」に名付けられたんだよと

訳知り顔で語る人もいますが、そんなことを言うのは

「私は仏教にもキリスト教にも無知です」

と告白しているようなものです。

仏教をきちんと学んだ人はそんなことを断じて言いませんし、

キリスト教をきちんと学んだ人もそんなことは言いません。

仏教で説かれている「仏」とは何か、

キリスト教の言う「神」とは何か、

基本的な理解を知るだけでも、

神と仏は全く違うことは明らかです。

似ても似つかぬほど違います。

 

ではどう違うのでしょうか。

仏教では一口に「神」といっても、三通りあると教えられています。

【1】天地創造の神

【2】鬼神

【3】諸神

 

【1】の「天地創造の神」とは、この世の創造主であり、

一切の運命を司る存在として語られる「神」です。

旧約聖書にある「神」、

キリスト教イスラム教の「神」はこれですから、

今日の人類の多くが「神」と言っているのは

この「天地創造の神」を指していう場合が多いでしょう。

ちなみに仏教を説かれた釈迦は

この「天地創造の神」を否定されています。

この世界もだれかが作ったものでもなけれは

支配しているものでもない、と説かれています。

 

【2】鬼神とは、死んだ人間や動物の霊魂が

生きている人間に禍福を与える力があるとし、

神として崇められ、恐れられているものです。

それらの霊魂が社や大木や巨岩などに鎮座しているとされ、

どうか恵みがあるように、祟られないように、と祀られるものです。

日本神道の「神」はこれにあたります。

ちなみに仏教では、この「鬼神信仰」も否定します。

 

【3】「諸神」といわれるもので、

仏教を守護する存在として仏典に説かれている神で、

帝釈天梵天などいろいろあります。

【1】【2】と違い、お釈迦さまが教えられている神です。

ただし、私たちに禍福を与える存在でもないし、

手を合わせ礼拝する対象ではないと説かれています。

 

これら「神」についてくわしく話すると時間がかかるのですが、

今日世界で最も大きな影響を与えている三大宗教の二つ、

キリスト教イスラム教の「神」である【1】について、

ちょっと詳しく語ってみようと思い立ちました。

「神と仏の違い」と題して、

10回分にわたる動画をアップしました。

1回分が5~8分です。

http://u0u1.net/BsEC

簡潔に神と仏の違いが分っていただけるのではないかと思います。

 

仏教の布施の一つ、言辞施とは

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【布施(2)】


仏教で教えられる『布施』の一つに『言辞施』があります。

優しい言葉をかける布施の行です。

 

大学時代、ある友人と相談してアパートの部屋をシェアして

生活することにしました。

つまらん理由から、その友人と仲が険悪になることもあり、

最初のころは「寝食共にするのはきついな」とよく思ったものです。

 

そんな生活の中から会得したのは、挨拶の大切さです。

朝、始めて顔合わせたら「おはよう」

帰ってきたら「ただいま」

それに対して「おかえり」

寝るときは「おやすみ」

何か取ってくれたら「有難う」

これが大事です。

家庭でも職場でもきわめて大事なポイントだと思います。

 

そんなの基本的なことで簡単じゃないか、

と思われるかもしれませんが、

分別つく社会人でもできない、難しい事です。

「○○ちゃん、こんにちは、は?」

と幼稚園のときに最初に学ぶことですが、

大人になっても身につかない、なかなかできないことです。

「こんにちは」が「こんちわ」それが「ちわっす」に

やがて「首をふるだけ」

しまいには「何も言わない」となりがちです。

 

何かむかつくことがあっても、口げんかしても

最低限あいさつだけは死守しなければ

何事もキツイ環境になっていきます。

 

挨拶が交わされる日常はとても心地よいものです

仏教では「言辞施」といって、優しい言葉をかけることが

布施の一つとして教えられています。

まず、あいさつから。

説法もついつい自分本位の話をする

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【布施(1)】


新任教師が初めて赴任した小学校で、

最初に担当したのが6年生のクラス、

次の年に担当したのが1年生のクラスだったそうです。

1年生のクラスの最初のホームルームの時間に

「分かった人は挙手して下さい」というと、誰一人反応がない。

どうしてかと戸惑い、ハッと気付いたその教師、

「分かった人は手を上げて下さい」と言い直すと、

今度は皆、手を上げたとのこと。

6年生に分かる言葉でも、1年生には分からないことを

わきまえていなかった失敗です。

 

私はホームページや動画を作成する際、

わからないところをネット上のマニュアルを読んで

勉強することがありますが、

何しろ説明の文章に特殊用語が次々と出てきて、

よく分からず、イライラします。

これ、わざと読むの諦めさせるために書いているのかな

と邪推したくなるほどです。

おそらくそれらの専門用語も、書いている人には、

日常的に使っている一般用語なので、なじみすぎてしまって

分かりにくい思いは全くないのでしょう。

 

私も仏教の教えを伝える際、それが説法であれ、

こうしたブログやメルマガの文章であれ、

よくよく気を付けねばならないことは、このことです。

ついこちらが知っている仏教の言葉や教えを、

皆知っているかのように錯覚して、話を進めてしまうのです。

相手の立場に立てば、この言葉は適当か、

ここまで話して大丈夫か、配慮が及ぶのでしょうが、

ついつい自分本位の話をしてしまうのです。

 

仏教に教えられる善行の第一に挙げられるのが『布施』です。

『布施』とは、相手に与えること。

常に相手の立場に立って言動を考えるのも『布施』です。

仏法を伝える時は、相手が受取りやすいように

常に相手に慮り、話していく『布施』の精神に

心がけていけるよう、反省していきたいと思います。

 

幸福になるのは一瞬で事足りる、と説く仏教

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【平生業成(1)】


仏教は一貫して

【結果には必ず原因がある】

【原因なしに起きる結果は絶対にない】

と教えます。

平たい言葉で言えば、

「まいた種は必ず生える。まかぬ種は絶対生えぬ」

ということです。

これが「因果の道理」という、仏教の根幹を成す教えなのです。

 

結果が異なるのは、原因が異なるからです。

一方はスイカ、一方はメロン、と実った果実が違うのは、

まいた種が違うから。

「まいた種」という原因が異なるのですから、

生じた結果が異なるのは当然です。

 

「なんであいつは恵まれるんだ」

「どうしてオレだけこんな目に」

と受ける運命の違いに首をかしげる人はありますが、

その差は、その人その人の種まき(行為)が違うからです。

十人十色、みな種まき(行為)が一緒ではありませんから、

一人一人違った運命が生じるのです。

 

「ではオレが不幸なのは、不幸になるような種まきを

 オレが過去にしてきたからというのか」

と訊いてくる人があれば、

「その通りです」

仏教は答えます。

 

「じゃあもう過去に戻ることはできないから、

 そんな種まきをしてきたオレは、ずっと不幸なのか」

と訊かれれば、

「それは違う」

仏教は説きます。

 

なぜなら、これから先ずっと不幸かどうかは、

今からの種まきによるからです。

これを『因果経』には、

「未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」

と説かれています。

 

過去は変わりませんが、

未来は現在によって変えることができます。

特に仏教では、現在ただ今

「ある心」が「ある心」にガラリと変われば【原因】、

その時その場で、壊れることのない絶対の幸福になれる【結果】

と教えられています。

 

また先ほど、「過去は変わらない」と言いましたが、

「過去の持つ価値を変える」ことはできます。

過去に流した悲しみや後悔の涙の一切も、

この身になるための出来事だったのか、と

真珠の玉となって戻ってきますから、一切の過去に感謝できます。

自分の過去にかけがえのない価値が生じるのです。

だから【現在】こそ、

【過去】と【未来】を輝けるものにする鍵なのです。

 

私たちは過去からずっと

「私を幸せにさせない心」を抱えています。

その心が現在ただ今、闇が晴れるように

ぱっと無くなったとき、

絶対の幸福に心が生まれ変わります。

これを親鸞聖人は「平生業成(へいぜいごうじょう)」

といわれました。

【平生】生きている現在に、【業】「人生の目的」が

【成】完成する、ということです。

仏教は生きている現在の教え

幸福になるのは一瞬で事足りるのです。

 

モンスタークレーマーへの対処法を釈迦が説かれている

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【口業(2)】


「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬよう気をつけるがいい」

とは、ニーチェの言葉です。

他人の欠点をずけずけと批判する人は、どこにでもいるものです。

そんな人は教師や店員から、

モンスターペアレント、モンスタークレーマーと恐れられます。

それらモンスターたちに、むきになって非難中傷の応酬となれば、

いつしか自分の心も荒み、

自分もまたモンスターに変貌してしまうでしょう。

 

お釈迦さまにこんな話があります。

あるとき、外教徒の若い男がお釈迦様の所にきて、

さんざん、悪口を言った。

黙って聞いておられた釈尊は、

彼が言い終わると、静かにたずねられた。

「おまえは、祝日に、肉親や親類の人たちを、

招待し、歓待することがあるか」

「そりゃ、あるさ」

「親族がそのとき、おまえの出した食べ物を

食べなかったらどうするか」

「食わなければ、残るだけさ」

「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、

その悪口雑言は、だれのものになるのか」

「いや、いくら受けとらなくとも、与えた以上は与えたのだ」

「いや、そういうのは与えたとは言えない」

「それなら、どういうのを受けとったといい、

どういうのを受けとらないというのか」

「ののしられたとき、ののしり返し、

怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。

闘いを挑めば闘い返す。

それらは与えたものを受けとったというのだ。

しかし、その反対に、なんとも思わないものは、

与えたといっても受けとったのではないのだ」

「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」

釈尊は、おごそかに、偈(うた)で答えられた。

「智恵ある者に怒りなし。

よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。

怒りに怒りをもって報いるは、げに愚かもののしわざなり」

「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」

外道の若者は、落涙平伏し帰順した、といわれています。

 

笑う者も続けて転ぶ雪の道

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【口業(1)】


今の季節、積もった雪や凍った道に

足をとられることも多いです。

北国の冬を私もまだ慣れているとは言えませんので

転ばないよう、気を付けたいと思います。

 

「笑う者も 続けて転ぶ 雪の道」

という歌があります。

雪道を歩いているとき、目の前で転んだ人を見て、

ああ、転んじゃって。気をつけないから……

と笑った人が、やはり同じところですべって転ぶ、という歌です。

 

首相や大臣の失言により、辞任に追い込まれるのを

もう何度繰り返し見ていることでしょう。

「○○大臣の発言は人間としての品格にかける」

とコメントしていた政治家が

やはり閣僚になって、同様の問題発言をしている。

 

転びやすいところでも、自分は大丈夫とうぬぼれて、

続けて転んでいる雪の道さながらです。

 

いや、そのようにニュース見て大臣の問題発言を笑ったり、

非難している私たちも、

問題発言をして職場での支持率が落ちたり、

家庭での失言で家族から辞任勧告を受けたりしますので、

これまた他人ごとではありません。

自戒してまいりましょう。

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