親鸞に学ぶ幸福論

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その人の今に、その人の過去の生き様がにじみ出る

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精進(3)】

 


私は中学、高校とテニス部でしたが、対戦相手と試合する時、

試合がまだ始まらなくても、

ボールをぽーんとこちらのコートに返すしぐさ一つで、

サーブを待つときのポーズ一つで、

「やべー、強いな」とピンときたものです。

 

何にでも長期にわたって、

重ねて重ねての練習に裏付けられた立ち振る舞い、

というのがあるのでしょう。

その場だけ、熟練者のふりをしても

そのしぐさで、その目の動きで見抜かれます。

 

宮本武蔵はたくさんの敵に囲まれたときに、

勝利する秘訣として、

まずたくさんの敵から誰が一番強いか、を見抜けと書いています。

武蔵ほどになると、敵の剣の構えや表情から、

一番強い敵をすばやく見抜く眼力を持っていたのでしょう。

 

私たちは剣の達人ではありませんが

それでもちょっと言葉を交わしただけで、

「かなり本読んできた人だな」

「相当、人間関係でもまれてきた人だな」

とわかることがあります。

「オーラが違う」「存在感があった」などと言われるように、

どこがどうということなく、

その本人からにじみ出るものなのでしょう。

 

昨日も紹介したミケランジェロですが、

こんなエピソードもあります。

ある貴族から胸像の制作を依頼された時、ミケランジェロは、

10日間で作り上げ、金貨50枚を請求しました。

貴族は驚いて、

「わずか10日で仕上げたにしては、制作費が高すぎる」

と抗議したところ、ミケランジェロは言っています。

「"わずか10日"で、この作品を作れるようになるには、

30年間の修錬が必要でした。

ただの10日間ではありません。

30年の蓄積に裏づけられた10日間です。

その価値がお分かりになりませんか」

 

分かる人は、10日間で作った目の前の作品を見れば、

どんな修練がその人の30年間にあったかが分かる

ということでしょう。

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ミケランジェロ「天才」の名声に隠れているものとは

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精進(2)】


■ミケランジェロは、歴史に残る彫刻や絵画を多数残した、

まさに「天才」と呼ぶにふさわしい芸術家ですが、

こんな話があります。

 

ある日、彼のアトリエを訪れた友人に、制作中の石像を指して、

「ここを見てごらん。少し深く彫ってみたんだよ。

ここはね、線にふくらみを持たせてみた……」

と、夢中になり、延々と語り始めました。

 

ところが友人には、先日の石像とどこがどのように変わったのか、

皆目分かりません。

こんな誰にも分からない個所を何日もかけてこだわっているよりも、

その間にもう一つ製作したら、彼ほどの大家の作品、

どれだけ能率が上がるか、と、

彼のしていることが才能の無駄遣いのように感じたのでしょう。

つい言ってしまいました。

「あまり細かい部分に日数をかけるのは、意味がないのではないか。

そんな時間があったら、別の作品に取り組んだほうがいい」

 

ミケランジェロは、うつむき加減にちょっと考える面持ちになり、

やがて顔を上げて静かに答えたといいます。

「そういう考え方もあるだろう。

しかし、小さな修正に時間をかけず、

見かけだけいいものを作っても、決して、人の心を打たないのだ」

 

ミケランジェロの作品の一つ一つが古今東西の垣根を越え、

人々を深く感動させるのは、

彼のこういう妥協を絶対しない姿勢にあったのでしょうね。

 

■有名な音楽家タルベルグにも、こんな話もあります。

ある人がピアノの演奏の依頼にいった時のこと。

近日にせまった新曲発表を、ぜひ、成功させたかったからです。

ところが、タルベルグの返事は意外でした。

「申し訳ないが、練習する日がたりません」

「あなたほどの大家、4、5日もあれば、これくらいの歌曲は、

わけないでしょう」

「いや、私は公開の席に出るには、

1日50回、1カ月1,500回以上の、練習をしなければ

出演いたしません」

 

■ミケランジェロにしても、タルベルグにしても、

彼らが一つの作品、一つの演奏に、身を削る思いで打ち込み、

どれだけ大変な時間と労力をかけてきたことか、

誰も気付かないであろうことは、

彼ら自身がよく知っていたでしょうが、たとえ気付かなくても、

そこを妥協せずに精魂込めたものでなければ

「何か分からないが、これは違う」と

人々の胸を打つ、感動を与える作品、演奏にはならないことを

よく知っていたのでしょう、

 

■海に浮かぶ氷山には、大きいのから小さいのまであります。

氷山が海面上に顔を出しているのは、全体の9分の1だそうで、

9分の8は海に隠れています。

人が感嘆するような大きな氷山は、

その隠れた部分にこそ、とてつもなく大きな氷の塊がある、

ということです。

人の見える部分だけ大きな氷山を作ろうとしても、

それは無理で、見えないところが大きくならないと、

見えるところも大きくならないということです。

 

ミケランジェロやタルベルグという大きな氷山には

その隠れた部分にこそ、大きなところがあった、

ということですね。

 

■私はこうして仏法を文章で伝えたり、人前で講義したり、

という立場でもう20年以上になりますが、

10を話しようと思ったら、100を知らねばならない、

と痛感し、反省させられています。

「10のこと言うんだから、

10だけわかっとればいいではないか」

ではやっぱりだめです。

100知ってその中の10の話と、10の中の10の話では

ぜんぜん説得力が違う、筆致が違う、表情が違う、

語尾も語勢やアクセントも、みな違うのです。

もうごかませない。

中に隠れて見えないものが大事だ、とつくづく知らされます。

 

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セレンディピティは、やっている人に顔を出す

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精進(1)】


ノーベル化学賞を受賞した鈴木章さんが

「何もやらない人は セレンディピティに接する機会はない。

(※セレンディピティ…価値ある発見をする能力のこと)

一生懸命やって、真剣に新しいものを見つけようと

やっている人には顔を出す」

とインタビューで話していました。

 

これは私も共感するところがあります。

私は仏法をお伝えするのが仕事ですが、

夜に講演会に立つ日は、朝から緊張します。

参加された人は「つまらない」「わからない」と思われれば

顔や態度に表れますし、眠そうな顔になりますし、

何より顕著なのは、次に来られなくなります。

シビアなものです。

「来てよかった」「また聞きたい」と思われるように、

判る話、共感する話、人に話したくなる話をしようと努めると、

食事していても、歩いていても、

「どう話すか」で、頭は占領されます。

あーでもない、こーでもないと、もやもや考えたり、

書籍をひっくり返したりしている時は

焦燥感もあり、忍耐の要ることなのですが、

これを怠ることはできません。

これが『産みの苦しみ』なのです。

 

悶々としているうちに、「ハッ」といい事例やいい表現が

思い出されてきたり、文章に目が止まります。

あるいは使えるニュースや他人の会話からも飛び込んできます。

自分が悩んでいると、普段なら聞き流してしまう言葉が、

表現が、会話が飛び込んできて、とっさに書き留めます。

これは高揚する瞬間です。

 

なにしろ悩む時間が大事です。

悩まずに臨んだ場合は、まず失敗に終わります。

『練る時間』と自分の中で呼んでいますが、

絶対なくてはならない必要な時間だと思っています。

 

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好き同士になったり、ケンカする仲になるのは、深い縁のある人と説かれている

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【縁(3)】


今、あなたの隣の人。

どうしてその人は、そこにいるのでしょう?

隣の人は好きな人ですか。それとも嫌いな人ですか。

何であなたの隣は、その人なのでしょう。

70億の人がいるのに、今、なぜその人が自分の隣にいるのか。

『袖触れ合うも多生の縁』。

袖が触れ合う、というのは、非常に接近している状態です。

東京と大阪では袖は触れ合えませんから。

 

となりに座る人、前に座る人、後ろに座っている人

どうしてそのような人と人との関係が起きたのか

「偶然だよ」と聞こえてきそうですが、

仏教では、その人と「縁」があったからだ、と説かれます。

一つの結果には、必ずそうなる原因があり、縁がある、

これを仏教では「因縁果の道理」といって、

仏教の根幹を成す教えです。

 

隣の人と私とは、何らかの関係があって、

そういう結果が今、おきているのです。

それは昨日とか、10年前におきたとか、

そんな短い間のことではないので、

『袖触れ合うも多生の縁』といわれるのです。

多生の縁、とは、何千年、何万年、何億年

遠い遠い昔、縁ができ、育まれ、

それにより、隣に今座っている、という結果があります。

 

愛し合うのも、近いからです。

けんかするのも、近いからです。

東京と大阪ではけんかもできません。

テレビでたまたま見かけた街頭インタビューの人に

腹が立って仕方ない、ということはありません。

「あいつ死んでくれたら」とまで思えてきてしまうのも、

近くにいる人だからです。

同じ職場の人とか、一緒に住まいしている家族とか・・

「気にかかって仕方ない」のも「顔も見たくない」のも

縁の深い人なのです。

 

親鸞聖人は、主著『 教行信証』に

どんな人でも本当の幸せになれることを説き明かし、

最後にこう書かれて筆を置かれています。

「この書を読む人には、信ずる人もあれば、謗る人もいるだろう。

いずれでもいい。それを因とし縁として、

仏の救いに遇い、未来永遠の幸福を獲得してもらいたい」

仏教の教えを信じる人も、仏とのご縁があるから信じるのであり、

仏教の教えを謗る人も、仏とのご縁があるから謗るのです。

どちらも縁の深い人、と手を差し伸べられる聖人のお姿が

彷彿とする末尾の文章です。

 

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人生に好きな人と嫌いな人が現われる理由とは

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【縁(2)】


どんな人にでも、好き嫌いはあります。

教師にも、担当のクラスの生徒に好き嫌いはあるでしょうし、

職場の上司も、気が合う部下と、気が合わない部下はあるでしょう。

もちろん教師と生徒の間でも、会社の組織でも、

好き嫌いの感情をあらわにするのはあってはならないことですが、

そういう感情があるのは人間である以上、仕方ないものです。

 

そしてこれも言えることですが、

教師に好かれる人は、必ずしも「従順でまじめな生徒」

ということでもありません。

上司の嫌いな人は、必ずしも「仕事のできない人」

というものでもありません。

好き嫌いは、その人との『縁』で決まる、と

釈迦は教えられています。

しかもその『縁』は、今生だけでなく、

何世にもわたる遠い過去世からの縁だと説かれています。

 

あなたの気になる人は縁のある人です。

クラスメイトでも「好きで好きで仕方なかった人」や

「今でもよくその人のことを思い出す人」は縁のある人、

逆に「顔見るのもイヤだった人」も縁のある人です。

名前を聞いても顔を思い出せなかったり、

同窓会で顔を見ても、こんな人いたっけ、という人は、

同じクラスになったのだから、縁の無い人ではありませんが、

あなたと縁が薄い人だったといえましょう。

 

これは教師でもそうで、教師は1~2年で担当が変わりますが、

勤続20年のベテラン教師にもなれば、

相当多くの生徒と接したことになりますが、

その中には十何年経っても、忘れられない

強い印象を残している生徒もあれば、

よく思い出せない生徒もありましょう。

これもその教師とその生徒の縁の問題です。

 

人生には、無視されたり、評価されなかったりして、

辛く寂しい思いをすることもあります。

そんな時、「自分の何が悪いんだろう」と反省して、

努力する心がけも大事なことですが、

いたずらにくよくよして、悶々と悩むのもよくないといえます。

どうしたって自分と縁のない人はあります。

 

自分から人が去っていっても、さほど悲観することはない。

自分を慕ってくる人があっても、有頂天になることもない

縁の問題です。

 

あまりそんなことに悩む時間あったら、

己の本分を黙々と果たすことに、力を注いだ方がいいです。

人生は短い。

「付いた」「離れた」で一喜一憂していてはもったいない。

必ずあなたを待っている人、

あなたの長所を見出して、伸ばしてくれる人、

そういう、あなたと 縁のある人との出会いがきっとあります。

 

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夫婦は過去世、仇同士だった?

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【縁(1)】


「袖振り合うも多生の縁」ということわざがあります。

電車やバスで、たまたま隣に座った見ず知らずの人と

袖や肩が触れ合ったりすることがあります。

偶然に、そうなったと思われるでしょうが、決して偶然ではなく

その人と過去世から何らかの縁があったからですよ、

という意味です。

「多生」ですから過去世、

何度も生まれ変わり死に変わりしてきた魂の歴史の中で、

何度も会っては別れ、別れては会った、深い関係のあった、

因縁のあった人なんだよ、

そんな人だからこそ、今生で袖振り合うことがおきたのだよ、

というのが『袖振り合うも多生の縁』です。

 

袖振り合うだけでも、それだけのご縁があったことを思うと、

好きになり、好かれることになり、

お互い支えあったり、いがみ合ったりしながら、

人生の苦楽を共にすることになった夫婦というのは

これはもう、、、よっぽどご縁の深い人なのです。

「夫婦は過去世、仇(かたき)同士だった」と言われるほどです。

 

「ここで会ったは百年目、盲亀浮木(もうきふぼく)

優曇華(うどんげ)の花、いざ尋常に勝負勝負」

このセリフ、芝居や講談での仇討ちの場面の決まり文句です。

盲亀浮木(もうきふぼく)とは、

目の見えない一匹の亀が、大海に浮く一本の丸太ん棒の穴に

ちょうど首を入れることがあるようなもの、という意味で、

めったにないことを釈迦が譬えられたものです。

「優曇華の花」も、仏典に説かれている、

何千年に一度しか咲かない花のことです。

 

親を殺された侍が、仇討ちのために何年も剣の修行をして、

免許皆伝の腕を身につけた後、仇討ちの旅に出ます。

それから何年も何十年も探し歩いた末に、

ようやく親を殺した仇を見つけた時

「ここであったが百年目」の言葉になるのです。

 

見失ってしまい、会いたい会いたいと探し続けた相手に、

「今生やっと会えた」といえるのが、夫婦なのでしょう。

ほおっておけない相手だからこそ、

恋人・夫婦はケンカもするのです。

 

しかしどんなに深い縁でも「しばらくの間」のこと。

いつまでも一緒にはおれません。

今日あって、明日どうなるか判りません。

悲しいことですが、いつかは別れていく相手です。

いや、だからこそ、

「今、かけがえないこのご縁を大切にしていこう」

と育む気持ちが生まれるのでしょう。

謝罪する人は損するようで得をしている、と説かれた釈迦

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【禅定(1)】


仏教で教えられる六度万行の一つに『禅定』があります。

「禅」は「しずめる」、「定」も「定める」こと。

散乱する自分の心をしずめ、定めることをいいます。

人のことばかり「あいつが悪い」と非難する心をしずめ、

自分の問題点や失態を反省することです。

 

たいてい私たちは人の問題点やミスには厳しくあたりますが、

自分の問題点やミスとなると、なかなかメスが入らないものです。

自己を反省し、悪いところを認め、謝罪するのは

口で言うほど簡単ではなく、大変難しいことですが、

それはお釈迦様が勧められた、良い種まきですから、

やがて幸せな花が咲きます。

 

今から話すことは事実を基にして創作したフィクションです。

場所は小学校の放課後。

A君は、友人B君とサッカーをしていて、

教室の花瓶を割ってしまいました。

その花瓶はみんなの寄せ書き入りの大切な花瓶だったのです。

怖くなった2人は、すぐその場から逃げました。

 

翌日の放課後、サッカーボールと壊れた花瓶の状況証拠から

誰がやったのか、緊急のホームルームの時間になりました。

正直に申し出る者が出るまでホームルームは続行だ、という教師に

教室中「やった奴、早く言えよ~」という雰囲気です。

 

いたたまれなくなったA君が、B君の方に目をやると、

ちょうどB君と視線があいました。

B君は真摯な顔もちで、ゆっくり静かにうなづきました。

「あー、これは自分達がやったのを告白しようと

B君は言っているんだな」とA君は判断し、

静かにうなづき返しました。

 

一呼吸置いて覚悟を決めたA君、

「はい、自分がやってしまいました」と手を挙げました。

当然、後に続いてB君の手をあげる声が聞こえるかと思いきや、

なんとB君は知らん振りしています。

 

結局、教師から叱られたのはA君だけでした。

B君のうなづきは

「とにかく黙っていようぜ、どうせわかりっこないんだから」

というサインだったのです。

 

ホームルームが終わり、B君がやってきてA君に言いました。

「お前、馬鹿だな。黙っていれば俺たちってわかるわけないだろ、

なんで言うんだよ、ば~か」と耳元で言います。

 

こんなときに「あ~、格好悪い・・」

と悔やんだ、ということですが、

これは本当にA君は格好悪いといえるでしょうか。

 

A君一人謝り、叱られ、恥をかき、

B君は謝ることなく、誰からも叱られず、

A君は損をし、B君は得をしたように見えますが、

それは近視眼的な見方です。

もっと高所大所から見れば、本当は謝罪したA君は得をし、

B君は損をしているのです。

 

もしあなたがこのときの小学校の教師でしたら、

申し出たA君に対して、どんな気持ちを持たれますか。

決してマイナス評価にはならないのではないでしょうか。

むしろ「人間的に見込みがあるな」と、

好印象を持つのではないかと思います。

失態を正直に申し出て謝罪するのは基本中の基本ながら、

大人でもなかなか実践できないことですから、

正直に申し出たA君を立派だなと思うと思います。

もちろん立場上叱りはしますが、心の中では、

A君の正直さを好ましく思うのではないでしょうか。

 

クラスメイトとて、A君のことを格好悪いと思わないでしょうし、

すぐ忘れてしまいますし、成熟した生徒ならかえって

「あいつ、まっすぐな奴だな」と、

別の意味で記憶してくれるでしょう。

 

一方、ごまかしたB君はどうかといえば、

教師やクラスメイトの記憶にも残らず、

もしあとで目撃者の発言で、B君も共犯だったと発覚したときには

教師からもクラスメイトからも著しく信用を失い、

悪い意味で記憶に残り、それこそ「格好悪い」結果を招きます。

 

その場その時の事象だけ見るのではなく、

長いスパンで視野を広げれば、

どちらが幸せになるか、明らかでしょう。

 

さらにいえば、人がどう思うかどうかに関係なく、

謝罪のできる人は、やがて問題点を克服し、向上していきますが、

謝罪せずごまかす人は、向上できず、

同じ失態を繰り返し、

ごまかしを重ねなければならなくなります。

慢性化したごまかしは、裏表のある人格になり、

顔つきや態度口調にも、それはにじみ出て、

ごまかしきれないものとなっていきます。

「まいた種は必ず生える」の仏説通りです。

 

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