親鸞に学ぶ幸福論

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波平の「バカモン!」と、それを受け止めるカツオの健全な関係

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【慈悲(3)】


『サザエさん』では、波平がいたずらしたカツオに

「ばかもん!」と叱りつけるシーンはおなじみですが、

先週『サザエさん』を何気なく観ていたら、

波平が、カツオを叱りすぎているのではと反省し、

叱らないようにしたところ、カツオが

「お父さんに見捨てられたのでは」と不安になる、

という話でした。

 

「ばかもん!」と怒鳴られても、カツオは、

「自分なんか親を怒らせるだけだから、いない方がいいんだ」

とは思わないようです。

波平が叱ってくれるのは、自分への愛情だと

受け止めているからこそ、カツオに不安がおきたのですから、

つくづく磯野家は健全だなあと思います。

 

カツオのように、叱られても萎縮せず、

叱った相手を嫌いにもならない人は、

自己評価が高く、自立心のある人だから問題ないですが、

私たちの現実の人生は『サザエさん』より複雑で、

重くドロドロしたところもありますから、

簡単にカツオのような性格にはなれず、

なかなか自分を叱った相手に心開けないことも多いでしょう。

「自分は嫌われているんだ」「いない方がいいのだ」

という方向に心が向いてしまいがちです。

そんな私たちだからこそ、自己の思考や行動を誘発する意味でも、

記憶に留めておきたい、昔から伝わる和歌があります。

 

『憎くては 叩かぬものぞ 笹の雪』という歌です。

庭の竹が雪の重さでしなる、そんな時、

ほおっておけば、竹は折れてしまいます。

そこで竹を叩いて雪を落とす、という雪国の習慣です。

その叩いている姿だけ見ると、竹を憎くて叩いてでもいるのか、

恨みを持って叩いているのかと見えますが

実際は「竹がかわいいから」していることです。

雪が積もってこのままでは折れてしまう、

雪を落としてやらなきゃ、との慈悲心から叩くのです。

 

医者ならば患者に「これ以上食べたら駄目だよ」

と厳しく注意しますが、言われるうちは大丈夫ということ。

「好きなだけ美味しいもの食べなさい」と医者が言ったら、

覚悟しなければならないかも、です。

もう医者がさじを投げた人、死ぬのを待っている人、

ということかもしれません。

せめて最後くらい自由に、ということでしょう。

そう思えば、「食べさせてくれない!」などと、

医者をうらむどころでない、

「言われるうちが花」で、感謝すべきところです。

 

叱ってくれる人は、竹を叩いている人です。

叱られるのも嫌なものですが、

叱るのも、相手が気分を害しますから、言いたくないものです。

そんな自分の心と戦って、何とか良くなってほしいと

言ってくれるのですから、、

自分のことを思っていてくれている人でないと、

なかなか叱ってもくれません。

 

ある程度の歳になると、誰も言ってくれなくなります。

若いうちは言えば直りますが、

年齢を重ねると、言う方も今さら直せないだろうとあきらめ、

何も言ってくれなくなります。

ただ信用されず、相手にされないようになり、

陰で笑われる、というのが、ほとんどです。

 

叱り方、叱るタイミングなど、相手のあることですから、

失敗することが多いのですが、その難しさを知りながらもなお、

失敗をしてもなおくじけずに、あなたを叱ってくれる人がいれば、

そんな人は人生においても、そんなに多く現われませんから、

大事にしなければなりません。

 

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なぜ慈悲の教えである仏教に、恐ろしい形相の仁王があるのか

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【慈悲(2)】


寺の門の両脇に立つ仁王像は、身震いするような激しい形相です。

慈悲の教えである仏教になぜこのような」と思われるでしょうが、

じつは仏の慈悲の一つの現れとして、仁王像は彫られます。

仁王は、衆生の迷いの心を叱り付けている姿なのです。

 

【怒る】と【叱る】は、違います。

「バカヤロー」と怒鳴っている声や顔だけでは、

怒っているのか、叱っているのか、判断できません。

声の大きさや形相では、怒っているのか、叱っているのか、

分かりません。

その違いは「心」だからです。

 

【怒り】は、仏教では『瞋恚(しんい)』といって、

全てを焼き尽くすことから「炎」にたとえられる、恐ろしい心です。

自分の言うことを聞かない者や、

自分の悪口を言う者におきる心です。

その人がいると自分の思い通りにならない、

自分にとって邪魔な人におきる心です。

常に発想の中心が「自分」。

自分の損得のことをいつも考えている人におきる心です。

その心にまかせて「バカヤロー」と怒り散らせば、

周りも本人も不幸にさせます。

 

一方【叱る】のは、相手に何とかよくなってもらいたい、

相手に幸せになってもらいたい、

今苦しんでいる相手の苦しみをなんとかできないか、との思いから、

その人のために発する言葉です。

その発想の中心は「相手」です。

 

叱られた人は気分を害するだろうし、自分を嫌うかもしれない。

誰も嫌われたくありませんから、

みなつい叱るのを躊躇してしまいます。

それでたいていは叱らないで、

陰で「あれではダメだ」と笑ったり、馬鹿にするものです。


 
そんな中、嫌われるのも覚悟して、

その言いにくいことを指摘してくれるのが

「叱る」という行為ですから、

これは慈悲心がなければできないことです。

 

慈悲心から「バカヤロー」と真剣に叱ってくれる人があれば

そんな人は人生にもなかなかいない、

とてもありがたい人なのです。

 

なかなか有り難いとは思えないのですが、

この心の向きが変われば、がらっと自分も回りも変わっていきます。

 

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観音菩薩・観音様・観世音菩薩の心とは。どんな意味か

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【慈悲(1)】


仏教に『慈悲』という言葉があります。

『慈』とは、「抜苦(ばっく)の心」

苦しみを抜いてやりたい、という心です。

『悲』とは、「与楽(よらく)の心」、

喜んでほしい、楽しませたい、という心です。、

苦しんでいる人を放っておけず、

その人に何とか笑顔になってほしいと念ずる心を

「慈悲」というのです。

 

慈悲の深い女性に「あの人は観音様のような女性だ」といいますが、

観音様とは観音菩薩のこと、

観音菩薩とは、阿弥陀仏の慈悲を象徴する菩薩です。

「観音」とは「世の音を観る」ということで、

衆生の苦悩の声を聞く、という意味です。

人々の憂い嘆きの声に耳を傾け、

相手の苦しみに「わかる。わかる」と共感し、ただ聞く、

それが「観音」という意味です。

 

相手の悩みを真剣に聞くことが、

時には、あれこれアドバイスするよりも

相手を救うことになります。

解決策をいわなくてもいい、

聞いてあげるだけで、人は安心します。

一生懸命、相手の悩みを聞くと

「聞いてもらえた、知ってもらえた」と満足します。

しゃべるだけが人を救うのではありません。

相手の悲しい愚痴話を、相手の立場に立って、

一言半句逃さず親身に聞くことで、

その人の苦しみが相当軽くなるのです。

 

その時は、いい加減に相づちを打ったり、

面倒そうに聞いてはいけない、

相手の苦しみに寄り添って、真剣に聞くのが大事だと言われます。

 

誰も愚痴話は、聞きたくないものです。

別に儲かる話でもなければ、勉強になる話でもありません。

自己の境遇を恨み、人を責める愚痴話は、

聞いているだけで、気も滅入りますし、イライラもします。

しかも同じ話ばかり繰り返すので、普通はうんざりするものです。

そんな話を親身に聞き続けるのは

よほど慈悲深い人でなければ、できないことといえましょう。

「何回も言わずにおれないほど苦しいのか、

オレも同じ立場なら何度でも言わずにおれなくて、

繰り返すだろうな」

とイライラする己の心を叩いて、

心からその人の苦しみに寄り添って、親身に話を聞く、

それは仏教で説かれる「慈悲」の実践であり、

「観音菩薩」の名の由来です。

 

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その人の今に、その人の過去の生き様がにじみ出る

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精進(3)】

 


私は中学、高校とテニス部でしたが、対戦相手と試合する時、

試合がまだ始まらなくても、

ボールをぽーんとこちらのコートに返すしぐさ一つで、

サーブを待つときのポーズ一つで、

「やべー、強いな」とピンときたものです。

 

何にでも長期にわたって、

重ねて重ねての練習に裏付けられた立ち振る舞い、

というのがあるのでしょう。

その場だけ、熟練者のふりをしても

そのしぐさで、その目の動きで見抜かれます。

 

宮本武蔵はたくさんの敵に囲まれたときに、

勝利する秘訣として、

まずたくさんの敵から誰が一番強いか、を見抜けと書いています。

武蔵ほどになると、敵の剣の構えや表情から、

一番強い敵をすばやく見抜く眼力を持っていたのでしょう。

 

私たちは剣の達人ではありませんが

それでもちょっと言葉を交わしただけで、

「かなり本読んできた人だな」

「相当、人間関係でもまれてきた人だな」

とわかることがあります。

「オーラが違う」「存在感があった」などと言われるように、

どこがどうということなく、

その本人からにじみ出るものなのでしょう。

 

昨日も紹介したミケランジェロですが、

こんなエピソードもあります。

ある貴族から胸像の制作を依頼された時、ミケランジェロは、

10日間で作り上げ、金貨50枚を請求しました。

貴族は驚いて、

「わずか10日で仕上げたにしては、制作費が高すぎる」

と抗議したところ、ミケランジェロは言っています。

「"わずか10日"で、この作品を作れるようになるには、

30年間の修錬が必要でした。

ただの10日間ではありません。

30年の蓄積に裏づけられた10日間です。

その価値がお分かりになりませんか」

 

分かる人は、10日間で作った目の前の作品を見れば、

どんな修練がその人の30年間にあったかが分かる

ということでしょう。

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ミケランジェロ「天才」の名声に隠れているものとは

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精進(2)】


■ミケランジェロは、歴史に残る彫刻や絵画を多数残した、

まさに「天才」と呼ぶにふさわしい芸術家ですが、

こんな話があります。

 

ある日、彼のアトリエを訪れた友人に、制作中の石像を指して、

「ここを見てごらん。少し深く彫ってみたんだよ。

ここはね、線にふくらみを持たせてみた……」

と、夢中になり、延々と語り始めました。

 

ところが友人には、先日の石像とどこがどのように変わったのか、

皆目分かりません。

こんな誰にも分からない個所を何日もかけてこだわっているよりも、

その間にもう一つ製作したら、彼ほどの大家の作品、

どれだけ能率が上がるか、と、

彼のしていることが才能の無駄遣いのように感じたのでしょう。

つい言ってしまいました。

「あまり細かい部分に日数をかけるのは、意味がないのではないか。

そんな時間があったら、別の作品に取り組んだほうがいい」

 

ミケランジェロは、うつむき加減にちょっと考える面持ちになり、

やがて顔を上げて静かに答えたといいます。

「そういう考え方もあるだろう。

しかし、小さな修正に時間をかけず、

見かけだけいいものを作っても、決して、人の心を打たないのだ」

 

ミケランジェロの作品の一つ一つが古今東西の垣根を越え、

人々を深く感動させるのは、

彼のこういう妥協を絶対しない姿勢にあったのでしょうね。

 

■有名な音楽家タルベルグにも、こんな話もあります。

ある人がピアノの演奏の依頼にいった時のこと。

近日にせまった新曲発表を、ぜひ、成功させたかったからです。

ところが、タルベルグの返事は意外でした。

「申し訳ないが、練習する日がたりません」

「あなたほどの大家、4、5日もあれば、これくらいの歌曲は、

わけないでしょう」

「いや、私は公開の席に出るには、

1日50回、1カ月1,500回以上の、練習をしなければ

出演いたしません」

 

■ミケランジェロにしても、タルベルグにしても、

彼らが一つの作品、一つの演奏に、身を削る思いで打ち込み、

どれだけ大変な時間と労力をかけてきたことか、

誰も気付かないであろうことは、

彼ら自身がよく知っていたでしょうが、たとえ気付かなくても、

そこを妥協せずに精魂込めたものでなければ

「何か分からないが、これは違う」と

人々の胸を打つ、感動を与える作品、演奏にはならないことを

よく知っていたのでしょう、

 

■海に浮かぶ氷山には、大きいのから小さいのまであります。

氷山が海面上に顔を出しているのは、全体の9分の1だそうで、

9分の8は海に隠れています。

人が感嘆するような大きな氷山は、

その隠れた部分にこそ、とてつもなく大きな氷の塊がある、

ということです。

人の見える部分だけ大きな氷山を作ろうとしても、

それは無理で、見えないところが大きくならないと、

見えるところも大きくならないということです。

 

ミケランジェロやタルベルグという大きな氷山には

その隠れた部分にこそ、大きなところがあった、

ということですね。

 

■私はこうして仏法を文章で伝えたり、人前で講義したり、

という立場でもう20年以上になりますが、

10を話しようと思ったら、100を知らねばならない、

と痛感し、反省させられています。

「10のこと言うんだから、

10だけわかっとればいいではないか」

ではやっぱりだめです。

100知ってその中の10の話と、10の中の10の話では

ぜんぜん説得力が違う、筆致が違う、表情が違う、

語尾も語勢やアクセントも、みな違うのです。

もうごかませない。

中に隠れて見えないものが大事だ、とつくづく知らされます。

 

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セレンディピティは、やっている人に顔を出す

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精進(1)】


ノーベル化学賞を受賞した鈴木章さんが

「何もやらない人は セレンディピティに接する機会はない。

(※セレンディピティ…価値ある発見をする能力のこと)

一生懸命やって、真剣に新しいものを見つけようと

やっている人には顔を出す」

とインタビューで話していました。

 

これは私も共感するところがあります。

私は仏法をお伝えするのが仕事ですが、

夜に講演会に立つ日は、朝から緊張します。

参加された人は「つまらない」「わからない」と思われれば

顔や態度に表れますし、眠そうな顔になりますし、

何より顕著なのは、次に来られなくなります。

シビアなものです。

「来てよかった」「また聞きたい」と思われるように、

判る話、共感する話、人に話したくなる話をしようと努めると、

食事していても、歩いていても、

「どう話すか」で、頭は占領されます。

あーでもない、こーでもないと、もやもや考えたり、

書籍をひっくり返したりしている時は

焦燥感もあり、忍耐の要ることなのですが、

これを怠ることはできません。

これが『産みの苦しみ』なのです。

 

悶々としているうちに、「ハッ」といい事例やいい表現が

思い出されてきたり、文章に目が止まります。

あるいは使えるニュースや他人の会話からも飛び込んできます。

自分が悩んでいると、普段なら聞き流してしまう言葉が、

表現が、会話が飛び込んできて、とっさに書き留めます。

これは高揚する瞬間です。

 

なにしろ悩む時間が大事です。

悩まずに臨んだ場合は、まず失敗に終わります。

『練る時間』と自分の中で呼んでいますが、

絶対なくてはならない必要な時間だと思っています。

 

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好き同士になったり、ケンカする仲になるのは、深い縁のある人と説かれている

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【縁(3)】


今、あなたの隣の人。

どうしてその人は、そこにいるのでしょう?

隣の人は好きな人ですか。それとも嫌いな人ですか。

何であなたの隣は、その人なのでしょう。

70億の人がいるのに、今、なぜその人が自分の隣にいるのか。

『袖触れ合うも多生の縁』。

袖が触れ合う、というのは、非常に接近している状態です。

東京と大阪では袖は触れ合えませんから。

 

となりに座る人、前に座る人、後ろに座っている人

どうしてそのような人と人との関係が起きたのか

「偶然だよ」と聞こえてきそうですが、

仏教では、その人と「縁」があったからだ、と説かれます。

一つの結果には、必ずそうなる原因があり、縁がある、

これを仏教では「因縁果の道理」といって、

仏教の根幹を成す教えです。

 

隣の人と私とは、何らかの関係があって、

そういう結果が今、おきているのです。

それは昨日とか、10年前におきたとか、

そんな短い間のことではないので、

『袖触れ合うも多生の縁』といわれるのです。

多生の縁、とは、何千年、何万年、何億年

遠い遠い昔、縁ができ、育まれ、

それにより、隣に今座っている、という結果があります。

 

愛し合うのも、近いからです。

けんかするのも、近いからです。

東京と大阪ではけんかもできません。

テレビでたまたま見かけた街頭インタビューの人に

腹が立って仕方ない、ということはありません。

「あいつ死んでくれたら」とまで思えてきてしまうのも、

近くにいる人だからです。

同じ職場の人とか、一緒に住まいしている家族とか・・

「気にかかって仕方ない」のも「顔も見たくない」のも

縁の深い人なのです。

 

親鸞聖人は、主著『 教行信証』に

どんな人でも本当の幸せになれることを説き明かし、

最後にこう書かれて筆を置かれています。

「この書を読む人には、信ずる人もあれば、謗る人もいるだろう。

いずれでもいい。それを因とし縁として、

仏の救いに遇い、未来永遠の幸福を獲得してもらいたい」

仏教の教えを信じる人も、仏とのご縁があるから信じるのであり、

仏教の教えを謗る人も、仏とのご縁があるから謗るのです。

どちらも縁の深い人、と手を差し伸べられる聖人のお姿が

彷彿とする末尾の文章です。

 

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