親鸞に学ぶ幸福論

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「ホイップクリームの法則」から、仏教の「日々是好日」を語る

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【日々是好日(4)】


努力しても結果がついてこない。

誠意をもって接していても、分かってもらえない。

「なんで自分はうまくいかないんだろう」と

くじけそうになる。

そんな時は、誰にでもあります。

そこに「ここ3年間は大殺界だから何をやってもだめ」

とアドバイスしてくる者もあると、

「じゃ、努力してもムダじゃん」

と今までの努力をやめてしまう人もありますが、

こんなもったいないことはありません。

 

「大殺界なんか関係あるかい。

研究工夫努力が足りないだけだ、

ユメを実現するには、ここを何とか打開せねばならないんだ」

と性根を据えて、

「あーしてみようか」「この人に聞いてみようか」

と果敢に挑戦を繰り返した者だけが、

ある日、ハッと思いもよらぬアイデアを生み出し、

一気に大成功していく。

成功者は総じてこういうプロセスを通っています。

 

当然その、よいアイデアがひらめいたのは、

その日が大安吉日だったからではありません。

くじけそうになっても果敢に挑戦を繰り返した日々こそが

そのアイデアを生み出したのです。

 

だから傍観者が、成功したその場面だけを見て、

「あんな簡単に儲けられるなら、オレだって」

と試みるのですが、

『鵜のまねをするカラス』は成功はできません。

 

あの挫折失敗の日々こそが、今の成功を生み出した、

感謝すべき日々だったことを成功者は知っています。

 

「ホイップクリームの法則」という詩があります。

====

「ホイップクリームの法則」

 

かき混ぜても

かき混ぜても

かき混ぜても

かき混ぜても

かき混ぜても

ほんの

少しの

変化もない

 

かき混ぜても

かき混ぜても

かき混ぜても

かき混ぜても

かき混ぜても

ぜんぜん

なにも

変わらない

 

かき混ぜながら

考えはじめる

これは

ほんとうに

ホイップクリームの素なのか

 

かき混ぜながら

疑いはじめる

このまま

かき混ぜていたら

ほんとうに

ホイップクリームになるのか

 

かき混ぜても

かき混ぜても

かき混ぜても

かき混ぜても

かき混ぜても

こんなに長く

かき混ぜても

やっぱり

なにも

変わらない

 

これは

ホイップクリームではない

こんなことをしていても

永遠に

ホイップクリームは

固まらない

 

そう思って

もう諦めようとした

その瞬間

突然

手ごたえのなかったボールのなかで

ホイップクリームは

固まりはじめる

 

いったん固まりはじめると

目にも留まらず

あっけないくらい

あっという間に

固まり終わる

 

かき混ぜつづけて

よかった

諦めなくて

よかった

 

そう思えるのは

固まるまで

かき混ぜつづけた

あなただけ

だから


======


今日の一日が良い日になるか、悪い日になるか、

今年一年が良い年になるか、悪い年になるか、

己の心がけと行為が決める、

だから『日日是好日』「毎日を良い日にしなさい」

と仏教では説かれています。

 

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戦は事前工作で決まるという秀吉の信念

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日日是好日(3)】


【まかぬ種は生えぬ】

【まいた種は必ず生える】

一貫した因果の道理に貫かれている仏教は

日の善悪や方角で運勢が決まると語るのを

一切迷信だと一刀両断します。

『如来の法の中に吉日良辰をえらぶことなし』(涅槃経)

仏教は日の善悪を論じない、とお釈迦様自身が仰言っています。

 

仏教の因果の道理を学んでいなくても

世で成功者と呼ばれる人の中には

それぞれに経験則の中から、行為が運命を切り開くという

因果の道理を信念に生きている人は多いように思います。

 

「天下分け目の天王山」「天王山決戦」

と今でもスポーツの世界などで

優勝を決めるような極めて大事な戦いに名づけられる、

この「天王山」という言葉は

織田信長を討った明智光秀と、

その仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が

この山を制した方が天下を取ることになると

両軍がぶつかりあった山の名前です。

 

人生をかけたこの戦に秀吉は

この一戦に秀吉破れたり、と聞けば城に火をかけ、

わが妻もわが母も刺し殺せ、と姫路城留守の将に命じています。

 


出陣前日に卦を占う者が

「明日という日は、非常な悪日でござる」

と、卦を立てた結果を報告しました。

卦によると、城主が二度と帰らぬ日だというのです。

これほどの悪日はない、と周りがささやきあう中、

「ばかをいえ」

と秀吉は叫びます。

みなも聞け、「二度と戻らぬ」とはこれほどの吉日はないぞ、

もとより討死の覚悟なればこの秀吉再び生きて帰るつもりはない。

「さらには」

秀吉は声をはりあげます。

「この一戦でもし光秀に勝たば思いのままに

どの土地かへ居城を構えることになろう、

どちらにしても二度と帰らぬはわがためには見事な吉日であるわ」

と動揺する味方を鼓舞し、一層士気があがったと聞きます。

 


秀吉は中国大返しの最中も馬上から次々と指示を出し、

近畿の武将をあらゆる手で調略し、

明智方の敵将を寝返らせ、情報をかき集め、

敵方に偽の情報を流し、勝利への布石を一つ一つ打っていきます。

 


戦は直接槍を交えるまでの事前工作で決まるのだ、

合戦に及ぶ時節には100%勝利が確定している状態で臨むべし、

との信念で事に臨んでいる秀吉には

たわいない迷信は何の動揺を誘うこともなかったようです。

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日々是好日という仏教の言葉の意味とは

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【日々是好日』(2)】

 


「大安」「仏滅」「友引」などの「六曜」が、

たいていのカレンダーに記載されているのは、

それだけ日の善悪を気にする人が多い表れでしょう。

中には、引っ越し、納車、宝くじを買うのも、

大安の日をわざわざ選ぶ、という人もあります。

 

縁起のいい日、厄日など、日の吉凶善悪を論じる信仰は

日本だけでなく、世界中に沢山ありますが、

仏教には『日々是好日』という言葉があります。

「日々を好い日にしなさい」という意味です。

私たちの運命の一切は、行いによって生じると説く仏教では、

善因善果、悪因悪果、自因自果

幸せになりたければ、幸せになるタネをまきなさい

不幸になりたくなければ、不幸のタネをまかないようにしなさい、

己に起きる一切の運命は、己の行いによるのですよ、

と説かれています。

だから仏教では、良い種まきができた日は良い日であり、

悪い種まきをしてしまった日は悪い日なのです。

最初から良い日、悪い日が決まっているのではない、

今日一日の行いの善し悪しで

良い日になるか、悪い日になるか、決まると説かれているのが

『日々是好日』です。

 

恋人にふられた日。

こんなに気持ちが落ち込んだのは、今までの人生で初めてだ、

まさに人生最悪の日。

カレンダーに仏滅とあるのを見て、

「やっぱり仏滅だからこんな目にあったんだ」

と思う人があれば、おかしい話しです。

恋人にふられてしまう原因をつくった過去の言動の数々、

その過去の日々こそ真に反省すべき「悪い日」だったのですから。

日の善悪のせいにしていたら、

恋人に振られるような原因を作った己の言動を省みることもできず、

また同じ失敗を繰り返すだけになってしまいます。

 

大学合格を喜んでいる人に

「やっぱり大安だったからだよ」

と言う人もないでしょう。

合格したのは、その日が良かったからではありません。

合格までの日々のこつこつした努力が、実ったのですから、

様々な誘惑に打ちかって勉強してきた日々こそが

【良い日】だった、ということでしょう。

 

仏教の『日々是好日』を学んでいなくても

世で成功者と呼ばれる人の中には

それぞれに経験則の中から、行為が運命を切り開くという

因果の道理を信念に持ち、

『日々是好日』を実践して生きている人は多いように思います。

 

「試合の本番にあまり興味を示さない。

本番は準備の確認作業に過ぎないのだから。

本番よりも、準備に多くの情熱を注ぎます」(イチロー)

 

「成功の秘訣は、何よりもまず準備すること」

               (ヘンリーフォード)

 

「引き金を引くのは誰でもできる。

大事なのはそれまでの構えであり、結果はそれで九割九分決まる」

(射撃の世界チャンピオン、ラニー・バッシャム)

 

特に私たちは、相当努力したのに、結果が出ず、

「どうしてこんなに頑張っているのに自分は結果が出ないのか」

となった時に、日の善し悪しや方角など、

運勢云々と口にする人の言葉が気になってきますが、

そんな苦難のときも、いや苦難のときこそ、

すべて己の心がけと言動にかかっていると

思い出したい言葉が『日日是好日』です。

 

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やはり結婚式に大安吉日がいいのか、お釈迦さまに聞く

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【日々是好日(2)】


たいていの日本のカレンダーには

「大安」「先負」「仏滅」などの「六曜」が記されています。

「結婚式は大安がいい」とか

「友引に葬式してはいけない」とか、

日本の習わしになっています。

 

結婚式場も「大安」は混みますし、

大安で結婚しても4組に1組は離婚する時代ですから、

結婚式は「仏滅」をオススメします。

空いていて丁寧に結婚式してくれるのでいい思い出を作れますし、

割引もしてくれるそうなので、浮いたお金で

新婚旅行をちょっぴり豪勢にした方が

夫婦仲も深まるのでは。

 

「友引」という字は、勝負事で何事も引分けになる日、

つまり「共引」が由来です。

「友引に葬式してはいけない」と言われるようになったのは、

友引の葬式は友達をあの世に引っ張るから、という意味だそうで、

語呂合わせ、だじゃれの域を出ない発想ですが、

そんな習わしがまかり通っています。

 

「仏滅」という言葉が含まれているからか、

「六曜」は仏教由来だと思っている人がありますが、

仏教の教えと六曜とは何の関係もありません。

仏教には

「如来の法のなかに吉日・良辰をえらぶことなし」(涅槃経)

“仏の教えに日の善悪を選ぶことはない”と教えられています。

もちろん親鸞聖人も、全く同じように教えられています。

「かなしきかなや道俗(どうぞく)の 

 良時吉日(りょうじきちじつ)えらばしめ」

“悲しいことよ。僧侶も在家の者も、日の善し悪しを論じている”

このように仏教ではまったく日の善悪を問題にしません。

 

もし仏教の僧侶でありながら、日の善悪を問題にする者があれば

形だけで、仏教の基礎を知らない僧侶です。

この涅槃経のお言葉を出して、

意味を静かに聞いてみてもいいでしょう。

 

仏滅やら、13日の金曜日やら、大殺界やら、金星人やら

様々な迷信がはびこっていますが、

かかる迷いの大衆に釈迦は一貫して

「未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」(因果経)

と教えられています。

未来の果(将来どんなことが我が身の上に起きるか)は

現在の因(今の私の心がけ、そして言動)が造る、

と徹底されています。

だからこそ『日日是好日』と教えられ、

毎日毎日の心がけと言動を磨いて、日々を良い日にしていきなさい、

と説かれているのです。

波平の「バカモン!」と、それを受け止めるカツオの健全な関係

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【慈悲(3)】


『サザエさん』では、波平がいたずらしたカツオに

「ばかもん!」と叱りつけるシーンはおなじみですが、

先週『サザエさん』を何気なく観ていたら、

波平が、カツオを叱りすぎているのではと反省し、

叱らないようにしたところ、カツオが

「お父さんに見捨てられたのでは」と不安になる、

という話でした。

 

「ばかもん!」と怒鳴られても、カツオは、

「自分なんか親を怒らせるだけだから、いない方がいいんだ」

とは思わないようです。

波平が叱ってくれるのは、自分への愛情だと

受け止めているからこそ、カツオに不安がおきたのですから、

つくづく磯野家は健全だなあと思います。

 

カツオのように、叱られても萎縮せず、

叱った相手を嫌いにもならない人は、

自己評価が高く、自立心のある人だから問題ないですが、

私たちの現実の人生は『サザエさん』より複雑で、

重くドロドロしたところもありますから、

簡単にカツオのような性格にはなれず、

なかなか自分を叱った相手に心開けないことも多いでしょう。

「自分は嫌われているんだ」「いない方がいいのだ」

という方向に心が向いてしまいがちです。

そんな私たちだからこそ、自己の思考や行動を誘発する意味でも、

記憶に留めておきたい、昔から伝わる和歌があります。

 

『憎くては 叩かぬものぞ 笹の雪』という歌です。

庭の竹が雪の重さでしなる、そんな時、

ほおっておけば、竹は折れてしまいます。

そこで竹を叩いて雪を落とす、という雪国の習慣です。

その叩いている姿だけ見ると、竹を憎くて叩いてでもいるのか、

恨みを持って叩いているのかと見えますが

実際は「竹がかわいいから」していることです。

雪が積もってこのままでは折れてしまう、

雪を落としてやらなきゃ、との慈悲心から叩くのです。

 

医者ならば患者に「これ以上食べたら駄目だよ」

と厳しく注意しますが、言われるうちは大丈夫ということ。

「好きなだけ美味しいもの食べなさい」と医者が言ったら、

覚悟しなければならないかも、です。

もう医者がさじを投げた人、死ぬのを待っている人、

ということかもしれません。

せめて最後くらい自由に、ということでしょう。

そう思えば、「食べさせてくれない!」などと、

医者をうらむどころでない、

「言われるうちが花」で、感謝すべきところです。

 

叱ってくれる人は、竹を叩いている人です。

叱られるのも嫌なものですが、

叱るのも、相手が気分を害しますから、言いたくないものです。

そんな自分の心と戦って、何とか良くなってほしいと

言ってくれるのですから、、

自分のことを思っていてくれている人でないと、

なかなか叱ってもくれません。

 

ある程度の歳になると、誰も言ってくれなくなります。

若いうちは言えば直りますが、

年齢を重ねると、言う方も今さら直せないだろうとあきらめ、

何も言ってくれなくなります。

ただ信用されず、相手にされないようになり、

陰で笑われる、というのが、ほとんどです。

 

叱り方、叱るタイミングなど、相手のあることですから、

失敗することが多いのですが、その難しさを知りながらもなお、

失敗をしてもなおくじけずに、あなたを叱ってくれる人がいれば、

そんな人は人生においても、そんなに多く現われませんから、

大事にしなければなりません。

 

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なぜ慈悲の教えである仏教に、恐ろしい形相の仁王があるのか

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【慈悲(2)】


寺の門の両脇に立つ仁王像は、身震いするような激しい形相です。

慈悲の教えである仏教になぜこのような」と思われるでしょうが、

じつは仏の慈悲の一つの現れとして、仁王像は彫られます。

仁王は、衆生の迷いの心を叱り付けている姿なのです。

 

【怒る】と【叱る】は、違います。

「バカヤロー」と怒鳴っている声や顔だけでは、

怒っているのか、叱っているのか、判断できません。

声の大きさや形相では、怒っているのか、叱っているのか、

分かりません。

その違いは「心」だからです。

 

【怒り】は、仏教では『瞋恚(しんい)』といって、

全てを焼き尽くすことから「炎」にたとえられる、恐ろしい心です。

自分の言うことを聞かない者や、

自分の悪口を言う者におきる心です。

その人がいると自分の思い通りにならない、

自分にとって邪魔な人におきる心です。

常に発想の中心が「自分」。

自分の損得のことをいつも考えている人におきる心です。

その心にまかせて「バカヤロー」と怒り散らせば、

周りも本人も不幸にさせます。

 

一方【叱る】のは、相手に何とかよくなってもらいたい、

相手に幸せになってもらいたい、

今苦しんでいる相手の苦しみをなんとかできないか、との思いから、

その人のために発する言葉です。

その発想の中心は「相手」です。

 

叱られた人は気分を害するだろうし、自分を嫌うかもしれない。

誰も嫌われたくありませんから、

みなつい叱るのを躊躇してしまいます。

それでたいていは叱らないで、

陰で「あれではダメだ」と笑ったり、馬鹿にするものです。


 
そんな中、嫌われるのも覚悟して、

その言いにくいことを指摘してくれるのが

「叱る」という行為ですから、

これは慈悲心がなければできないことです。

 

慈悲心から「バカヤロー」と真剣に叱ってくれる人があれば

そんな人は人生にもなかなかいない、

とてもありがたい人なのです。

 

なかなか有り難いとは思えないのですが、

この心の向きが変われば、がらっと自分も回りも変わっていきます。

 

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観音菩薩・観音様・観世音菩薩の心とは。どんな意味か

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【慈悲(1)】


仏教に『慈悲』という言葉があります。

『慈』とは、「抜苦(ばっく)の心」

苦しみを抜いてやりたい、という心です。

『悲』とは、「与楽(よらく)の心」、

喜んでほしい、楽しませたい、という心です。、

苦しんでいる人を放っておけず、

その人に何とか笑顔になってほしいと念ずる心を

「慈悲」というのです。

 

慈悲の深い女性に「あの人は観音様のような女性だ」といいますが、

観音様とは観音菩薩のこと、

観音菩薩とは、阿弥陀仏の慈悲を象徴する菩薩です。

「観音」とは「世の音を観る」ということで、

衆生の苦悩の声を聞く、という意味です。

人々の憂い嘆きの声に耳を傾け、

相手の苦しみに「わかる。わかる」と共感し、ただ聞く、

それが「観音」という意味です。

 

相手の悩みを真剣に聞くことが、

時には、あれこれアドバイスするよりも

相手を救うことになります。

解決策をいわなくてもいい、

聞いてあげるだけで、人は安心します。

一生懸命、相手の悩みを聞くと

「聞いてもらえた、知ってもらえた」と満足します。

しゃべるだけが人を救うのではありません。

相手の悲しい愚痴話を、相手の立場に立って、

一言半句逃さず親身に聞くことで、

その人の苦しみが相当軽くなるのです。

 

その時は、いい加減に相づちを打ったり、

面倒そうに聞いてはいけない、

相手の苦しみに寄り添って、真剣に聞くのが大事だと言われます。

 

誰も愚痴話は、聞きたくないものです。

別に儲かる話でもなければ、勉強になる話でもありません。

自己の境遇を恨み、人を責める愚痴話は、

聞いているだけで、気も滅入りますし、イライラもします。

しかも同じ話ばかり繰り返すので、普通はうんざりするものです。

そんな話を親身に聞き続けるのは

よほど慈悲深い人でなければ、できないことといえましょう。

「何回も言わずにおれないほど苦しいのか、

オレも同じ立場なら何度でも言わずにおれなくて、

繰り返すだろうな」

とイライラする己の心を叩いて、

心からその人の苦しみに寄り添って、親身に話を聞く、

それは仏教で説かれる「慈悲」の実践であり、

「観音菩薩」の名の由来です。

 

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