親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

人の欠点を責めるか、人の長所を立てるか、は一国の盛衰に関わる

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【布施(2)】


武断派と呼ばれる加藤清正と、文治派の石田三成との仲違いが、

豊臣政権を弱体化させ、家康の政権奪取を許したのは、

歴史上よく知られる話です。

 

加藤清正らからすれば、秀吉がまだ信長の一武将として

戦に明け暮れていたときから、共に戦い、武勲を挙げ、

天下統一を秀吉と共に成し遂げてきた自負がありますから、

すべて整ったあとに側近で大きな顔して指示を下す石田三成

鼻持ちならなかったのでしょう。

 

石田三成としても、天下統一後の政権運営が、

その緻密さ、計画性、調整など、どれほど骨の折れる仕事か、

その重責がいかばかりか、お前たちには分かるまい、

文句ばかり言いやがって、と思っています。

 

唐入りの際も加藤清正らは、

異国で飢えと寒さをしのぎながら闘っている俺たちの苦労が

お前に分かるか、と不満のはけ口が石田三成に向きます。

 

三成は三成で、かつてなかった大がかりの兵站など、

オレにしかできない仕事だ、と寝食忘れて任務に取り組み、

槍を持って戦う猪武者とは違う、と強烈な自負があります。

 

天下に稀なる長所を持った二人でしたが、

お互いがお互いの長所を敬わず、相手の短所、欠点をあげつらい、

その軋轢が家康の工作に利用されました。

 

たいてい私たちは、自分が苦労してやっていることを、

やらない人、できない人がいると、気がつき、干渉したくなります。

そして自分がやっていないことを、

やっている人、できる人がいても、気がつきません。

気がついても、たいしたことだとは思いません。

 

加藤清正石田三成のできることはできず、

石田三成加藤清正のできることはできず、

その両者が相手のできることを尊重するのではなく、

相手のできないことを批判し合ったところに

悲劇が起きました。

 

三国志諸葛孔明関羽張飛の関係も

最初こそ両者の間はぎくしゃくしますが、

孔明関羽張飛のたぐいまれな長所を敬い、生かそうとし、

関羽張飛孔明のたぐいまれな長所を敬い、信頼していき、

それが蜀の建国へとつながっていきました。

 

「他人の長所を発見して、ほめるようにしよう」

仏教で説かれるのは、それが良い種まきだからです。

良い種をまけば、良い結果が生じます。

逆に、他人の短所をあげつらい、悪口ばかり言っていると

これは悪い種まきですから、不幸、災難の悪い結果が生じます。

「言うは易く、行うは難し」ですが、

少しでも良い種まきができるよう、前進していきたいものです。

 

他人の欠点を言うのが好きな人と、人の長所を見抜くことのできる人は違う

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【布施(1)】

 

よく言われることですが、最近自分でもそうだなと

つくづく感じられていることの一つに、

「人の欠点、短所を気付くよりも、人の長所を発見する方が難しい」

ということです。

 

文章の勉強のために、人の書いた文章を注意深く読み、

「この切り口と表現は上手いな」とか

「自分だったらこうは書かないな」と、こっそり評価しています。

そういう訓練をするようになって感じることは、

「短所を批判するのは簡単だ」ということです。

もちろん人のやり方や作品の欠点、短所に気付くのも、

幾分かの知識、感性がなければできないことなので、

気付ける、というのは、その人の一つの力量ともいえます。

しかしちょっと学べば、けっこう気付くことはできます。

 

気付いたときに、気をつけねばならないことがあります。

私達は気付いただけでは終わらず、気付いた欠点、短所を、

誰かに言いたくて仕方なくなることです。

人のやり方や作品をけなすことが自己主張の場となり、

「自分はこんなに見る目があるんですよ」と自慢になり、

相手を見下すことで優越感にも浸れることができ、

いろいろと気持ちが良いからでしょう。

だから人の短所を批判し、けなす人は、どこにでもいます。

 

対して「長所をほめるのが難しい」のです。

長所を発見できる人は、力のある人です。

長所が分かる人は、相当その分野で「できる」人、

または相当その道で「やってきた」人です。

そんな人は少ないので、人の長所を発見できる人は少ないのです。

「すごい」と言われる人の、どんな点がすごいか、ということも、

自分がある程度までいかないと、わかりません。

ある程度まで自分のレベルがいくと、

みんなが言う「すごい」とはこのことか、とわかってきます。

 

ましてや誰もすごいと言わない人のすごい点を発見できる人は、

よほど「すごい」人です。

砂利の中からダイヤの原石を見つけられる眼力の人ですから。

 

批判し、けなす人は、「じゃあお前やってみろ」とやらせると

できないことも往々にありますが、

長所を見抜ける人は、間違いなく「やってきた」人です。

 

仏教では「他人の長所を発見してほめるようにしよう」と

教えられます。

つい人の短所ばかり気付き、言いたくなる心を抑えなさい、

人の長所を発見し、引き出せるような人間を目指しなさい、

と勧められているのです。

会者定離ありとはかねて聞きしかど

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会者定離(2)】

 


会者定離 ありとはかねて 聞きしかど

      昨日今日とは 思わざりけり』

親鸞聖人のお歌です。

会者定離」とは仏教の言葉で、

「出会った人は必ず別れなければならない」ということ。

誰しも大切な人とはいつまでも一緒にいたいものですが、

この世は無常ですから、必ず別れねばならないときがあります。

嫌いな人なら、別れて清々するでしょうが、

愛する人との別れは、強い苦しみを伴います。

仏教ではその苦しみを「愛別離苦」といいます。

 

海外居住、卒業式などで、好きな人と別れる時は辛いですが、

生きているなら、また再会できます。

別れの中でも、特に辛いのは、死別でしょう。

散った桜は来年には咲きますが、消えゆく命は二度と戻りません。

もう一度会いたいと、どれだけ遺体にすがって泣き叫んでも、

かなわない、その厳然たる事実が、

さらに人を涙の谷底に突き落とします。

 

もう10年くらい前の話ですが、

30代で最愛の夫を突然の交通事故で亡くし、

女手一つで二人の子供を育て、ようやく下の子が大学に入り、

「時間ができたので」と仏教講座に来られた女性が

言われていたことが、今も心に残っています。

「夫を亡くしたとき、あの人一人だけがいなくなったのではなく、

家族みんなを包んでいる空気ごと、あの人は

あの世に持って行ってしまった」

と言われていました。

 

考えたくないですが、死は万人の将来ですから、

大切な人ともやがて必ず別れる時があるのを、

誰しも覚悟しておかねばなりません。

 

しかしどんなに覚悟していても、大切な人との別れは

「昨日今日とは思わざりけり」

まさかこんなに早くその時がやってこようとはと、

今起きている現実が受け止められず、

「早すぎる、嫌だ、嫌だ」と

悲泣せずにいられないものなのでしょう。

 

出会いと別れは旅人の一夜の宿

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会者定離(1)】

 


「月日は百代の過客にして、往きかう人もまた旅人なり」

(松尾芭蕉

人生はよく旅にたとえられ、人間を旅人にたとえられます。

旅にたとえられるのは、

旅にさまざまな出会いがあり、別れがあるように、

人生は出会いと別れの連続だからです。

 

3年前ですが、小学校3年生の時の担任の先生が

フェイスブックから「菊谷隆太君ですか」と

メッセージを送ってこられて、びっくりしたことがあります。

たった1年間、そんな個人的に話したこともない一生徒を

覚えていてくれたことに感激し、

「教師ってすごいな」と嘆息しました。

私を担当されたとき、その先生はまだ大学出たてでしたが、

今は結婚されて姓も変わり、転職されていました。

いつか直接お会いできたらいいなと思います。

 

こんなパターンは珍しい方かもしれません。

私は子供の頃、2回引っ越したこともあって、

幼なじみとはもう40年近く顔を合わせず、音信もないですが、

ほとんどの人とは、二度と会えないような気がしてます。

 

その後も中学、高校と、打ち解けたり、ぶつかったり、

いろいろな人との思い出もあり、

「あいつ、どうしてるかな」とふと思うこともあっても、

再会できる日がくるかどうか。

また同窓会などで会えればいいのですが、

一生涯、再会できずに終わる人が多いと思います。

あの時はあんなに好きになったり、嫌いになったり、葛藤したり、

陰に陽に私の人生に影響を与えた人たちですが

今となっては、どこで何をしているのやら・・・

 

そう考えると、今、私の近くにいて、

泣いたり、笑ったり、怒ったりしている人たちも

やがては「どうしてるかな」と、

懐かしく思い出す人となっていくのでしょう。

 

江戸時代、街道筋を旅する人が、旅先の宿屋で同宿して、

囲炉裏を囲んで酒や煙草をのみながら、旅の思い出などを語り、

朝が来るとめいめいの方向に歩いて、もう二度と会わない、

そんな一夜の旅の道連れが、人生で出会う人、といえましょう。

 

いずれにせよ会者定離
 
出会いがあれば、必ず別れもあります。

会者定離 ありとはかねて 聞きしかど

 昨日今日とは 思わざりけり』

35歳で流刑になられる親鸞聖人が、

恩師、法然上人との痛恨の別れを惜しんで詠まれた歌です。

 

大切な人との別れはひょっとしたら今晩かもしれません。

『一期一会』という言葉もあります。

好きな人ともしばらくの間。

嫌いな人ともしばらくの間。

いずれも、かけがいのないご縁と向き合っていきたいものです。

さまざまな原因が重なって事件や事故は起きている

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【法鏡(1)】


私は20代の頃、追突事故に遭いました。

後ろから追突されたのですが、一般道で

相手の車がスピードを出ていなかったこともあり、

怪我も後遺症もなく済みました。

 

警察が立ち会い「追突した側の不注意」と判断したので、

賠償責任は10対0という結果でした。

相手の人も私と同じ歳くらいでしたが、

「ぼぉーっと運転してた」と、しきりに平身低頭、

謝ってこられました。

私も「気にしないで下さい」と返したのですが、

その時、実は私も自分に非があることを、少し感じていました。

 

というのは私の前の車が、通り沿いにある店に入る際、

右折するために突然ブレーキをかけたので、

後ろにいた自分もあわててブレーキをかけたからです。

ブレーキ音こそなかったものの、私自身、

ぶつからなくて良かったと焦るほどの急ブレーキでしたから、

すぐ「後ろの車は大丈夫かな」と心配になり、

バックミラーに目をやりました。

案の定、後ろの車は気付くのが遅く、身構えた瞬間、

ガチャンとぶつかってきたのです。

 

事の発端は、私の前の車の急なブレーキなので、

前の車は事故原因の大きな割合を占めていたと

今でも私は思っていますが、

もちろんその車は、警察の立ち会いもなく、

何のおとがめも、損害もなしです。

でもおそらくその運転手も、自分が事故の原因になった自覚は

あったと思います。

 

私も車間距離が近かったので、かなりの急ブレーキでした。

もっと私が車間距離をあけており、余裕を持ってブレーキをかけ、

後ろの車にブレーキランプで早めに知らせられれば、

事故が起きなかった可能性が大きかったので、

私にも原因があったと思っています。

 

しかしあくまでも警察の判断は「追突した人の前方不注意」です。

 

およそ何かの事故、事件、不祥事が起きるときというのは、

このときの追突事故のように、

いくつもの複数の要因が重なって起きるのだと思います。

わかりやすく、明らかに問題だった人が

原因とされ、責任をかぶることが多いですが、

背後には複雑な原因があるのだろうなと感じます。

 

会社で不祥事が起きて、責任取って辞職する社員がいます。

その社員のミスが原因で、会社に損害を出したからですが、

そもそもミスを防げるシステムがなかったとか、

その社員に仕事の負荷がかかり過ぎていたとか、

いろいろな要因が重なり、大きな不祥事を生んだといえます。

 

奥さんが浮気して離婚、多額の慰謝料を払い、

両方の親族からも罵倒され、という場面がありますが、

これも奥さんが原因ではありますが、

奥さんをそうさせてしまった原因まで遡れば、

夫や周りの環境にもあったかもしれません。

 

殺人を犯した人であっても、その人の家庭環境、生い立ち、

現在の境遇など調べると、その人を犯罪に走らせた要因は

多々見えてきます。

 

もちろんミスをした社員、浮気した妻、殺人を犯した人は

その報いを受け、深い反省をしなければなりませんが、

その人の人格だけを問題にして、周り中が責めて終わり、

というのはどうかと思います。

 

ある30代の男性から聞いた話です。

小学生の時、彼はあるウソをついたことで、

多くのクラスメイトに迷惑をかけ、

クラスの友人やその親、さらには自分の親からも

人格を否定されるようなことを言われたそうですが、

担当の先生だけは

「どうしようもない理由があったんではないか」

と全部話を聞いてくれたそうです。

「ちょっと前までは全然ウソつくつもりなかったのに、

うっかり言ってしまうことはあるんだ、わかるよ。

今お前の話聞いたら、そう言ってしまう気持ちも分かる。

でもたとえそんな時でも、ウソは言っちゃいけないんだよ」

と言ってくれたそうです。

 

その担当の先生の言葉に救われたと言っていました。

今でもその先生には、年賀状を送るそうです。

 

殺生に罪の意識を自覚できない現代の文明

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【殺生罪(3)】


殺生罪についてお話ししたところ、

「人や動物が他の動物を殺して食べるのは自然の摂理であり、

殺生がなければ成り立たないので、悪ではないのでは」

とのご意見がありましたので、それについてお話しいたします。

 

確かに仰るとおり、肉を食べるのは自然の摂理であり、

生きていくにはどうしようもないことですが、

【仕方ない】=【罪悪ではない】ということではありません。

 

動物も私たちと同じように、親子・夫婦が支え合って

一生懸命生きていますし、死にたくないのも人間と一緒です。

首を抑えつけられたニワトリがばたばたもがくのも、

撃たれたシカがよろめきながらもなおも必死に逃げようとするのも、

死にたくないからです。

猟の経験がある方で、最後、とどめを刺すときの獣の怯えた目、

断末魔の叫び声を聞き、罪悪感を感じたという話しをよく聞きます。

もし殺されていく動物たちが人間の言葉がしゃべれたら

「嫌だ、死にたくない、助けてくれ」と懇願するでしょう。

「なんで一方的にこんな目に遭わなければならないのか」

「なんて残酷なんだ」と理不尽さに悔しさをぶつけるでしょう。

今も人権が踏みにじられている国家では、

冤罪で強制労働、死刑になる人があるでしょうが、

動物たちの恨みは、冤罪で殺されていくその恨みと同じです。

 

直接的な殺生の行動を取った経験のある人が少ないので、

罪の意識が「希薄」あるいは「ない」ということでしょう。

私たちは肉といえば、スーパーで見かける、

パックに入った切りそろえた肉しかふだん目にしませんから、

自分が日々殺生罪を犯している自覚はありません。

しかしその一パックの肉片が私たちの手に渡る前に、

私たちの見えないところで目を覆いたくなるような動物への惨劇が

繰り広げられているのです。

その現場を見れば、人間の悪業の深さを感じられることと思います。

屠殺業者が動物たちをあくび半分で殺していくのを見て、

まるでサイコパスでも見るような、

怖い、嫌な気持ちになる人もあると思います。

 

しかしその食肉工場での動物への残酷な仕打ちは、

消費者である私たちがお金を出し、依頼して

なされていることですから、私たちも同罪です。

 

それを直接手にかけて殺す職業の人だけを残酷な悪人だと見下げて、

自分はそんなかわいそうなことはできないと

一段高いところに立っているのは、我が見知らずです。

 

微塵の欺瞞もごまかしも許さぬ仏の鏡に映れる私たちの姿は、

おびただしい殺生をせずしては生きられない、

どうにもならない恐ろしい、悲しい業を背負っている存在です。

そんなどうしようもない極重の悪人だからこそ、

阿弥陀仏の本願によるしか助かる道はないと

教えられたのが、親鸞聖人です。

 

 

菜食主義者は殺生罪を犯していないのか

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【殺生罪(2)】


殺生罪について、先日お話ししたところ、

いくつかのご質問がありました。

そのご質問をまとめますと、

以下の2問に収まると思いました。

1.肉を食べない生き方を勧めれば、悪を造らなくていいのか

2.人や動物が他の動物を殺して食べるのは自然の摂理であり、
殺生がなければ成り立たないので、悪ではない。

そこでこのメルマガ上でこの2問にお答えして、

送って下されたメールの回答といたしたく思います。

さらにご質問あれば、またメールください。

 

さて、まず1問目です。

1.肉を食べない生き方を勧めれば、悪を造らなくていいのか、

という意見ですが、事実、そのように思って肉食をせず、

菜食主義を貫き、仏道修行としている僧侶は世界中に多くあります。

というより中華圏、東南アジア圏などのほとんどの地域では、

僧侶たる者が当然果たさねばならない戒律だとされています。

肉を食べる僧は堕落であり、戒律を破った破戒僧であるとし、

仏の救いには遇えず、悪い報いを受ける、と信じています。

 

しかし米や野菜ばかりを食べ、肉食しない人は、

殺生罪を犯していないのかというと、そうではありません。

今日、農薬を散布せずに田畑を耕すところは、多くありません。

農薬をまけば、天文学的な数の虫が死にます。

農薬を使わないならそれはそれで、

野菜を食べようとする虫をいかに退治するか、の飽くなき戦いです。

野菜を食べているということは、

そのために犠牲になったおびただしい殺生があったということです。

 

また道を歩けば虫を踏んでしまいますし、

車を運転すればフロントガラスに虫がぶつかります。

生活するままが日々、殺生の連続ではないでしょうか。

 

幾千万の生命を奪わずしては生きてはいけない私たちの実相

「全ての人の、どうにもならぬ恐ろしい業」と

仏教は説かれています。

 

2問目につきましては、次回、お答えいたします。

 

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