親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

臨終の瞬間に人は何を思うか、ブッダに聞く

f:id:kikuutan:20170801213034j:plain

 

【後生の一大事(1)】

 


子供に重力の話をすると、まず出てくる質問が

「なぜ地球に重力があるの?」ということです。

実はこの問いには、いかなる科学者も答えられません。

わかっているのは、引力という力がこの宇宙には存在する

という事実だけです。

 

ところが学校に行くようになり、

「質量を持つ物体の間には、引き合う力が発生する。

その力は、物体間の距離の二乗に反比例……」

と説明され、さまざまな方程式を学び、

答案を埋める作業をしていく中で、

重力が分かった気になり、疑問さえ抱かなくなってしまいます。

 

同様に、科学が人体の仕組みを解明し、

快や不快、思考までも、脳内の化学反応で説明するようになると、

生きていることが、何となく分かった気になります。

【己は何のために生まれてきたのか】

【なぜ苦しくても生きねばならないのか】

人生の本質的な問いには、何ら答えを知らないのに、です。

 

臨終の不安と絶望の中で

「あなたの苦悩は、脳内のこういう化学反応によるんですよ」

と説明され、

「そうでしたか」

と安心できるかといえば、無理でしょう。

知りたいのはそんなことではないからです。

 

『大命将に終わらんとして悔懼交々(けくこもごも)至る』

(臨終に、後悔と恐れが、代わる代わるおこる)

死んだらどうなる のだろう】

真っ暗な未来だけが大問題になる、と釈迦は説かれています。

これを仏教では『後生の一大事』といいます。

知識や学問では精算できない一大事です。

=========


仏教の教えをわかりやすく体系的にお話する

20回の無料メール講座好評配信中。



 

桑原武夫氏のわくわくする散歩に、幸福の元を見る

f:id:kikuutan:20170730195830j:plain

 

意業(1)】


■各界で功績を残した評論家、桑原武夫氏は

好奇心の塊のような人でした。

氏が、研究者仲間と一泊旅行に出かけ、

バスを降りて目的地まで2キロほど野道を歩く、

その道中のことを書いています。

何の変哲もない田舎道を、他の研究者は

「道がしんどかった」と言うだけの感想でしたが、

桑原氏は実に道中を楽しんでいます。

「両側には麦がよく生長している。

小川の縁にカキツバタが美しく咲いている。

おもしろいところに、カキツバタがあるな。

それから農家の横に、花はつけていないが梅の木がある。

少し向こうの農家では屋根をふきかえており、

小さな水たまりで子供がカエルを釣っている。

とんぼが飛ぶ。

そうしたいろんなことを見ながら歩いていった」

こんな風に同じ2キロの田舎道でも、

しんどかった、と言うだけの人と

さまざまな新鮮な驚きに満ちている人とでは、

人生も大きく変わるだろうなと感じます。

 

■あるお笑い芸人から聞いたことです。

雨が降ってきたので、傘を開いたところ、

大きく破れており、使い物にならなかった、とのこと。

こんな時、普通の人は「ついてない」と不快になりますが、

笑いのネタを常に探しているお笑い芸人にとっては

「これは自虐ネタに使えるかも」とワクワクしてきて、

頭が高速回転を始めるとのこと。

多くに人が嘆く出来事も、笑いに変えるプロ根性に感嘆します。

「笑いにしなければ、オレの不幸が浮かばれない」

と言っていました。

 

■庭の昆虫、花や石など身近なものをモチーフに、

面と線だけで構成された独特な画を多く残し、

「画壇の仙人」と言われた画家の熊谷守一は、

「たとえ監獄でも石ころ一つを見ていれば、何ヶ月でも暮らせる」

と言っています。

 

■刺激の多い、ワクワクした環境にするのに、

どうやら風光明媚な観光地も、

アトラクション満載のテーマパークも要らないようです。

心一つに、人生を豊かにする無限の可能性が秘められている、

といえましょう。

=========

仏教に説かれた「生きる意味」を分かりやすく体系的に学べる

全20回の無料メール講座です。

今すぐこちらから。 

「一から分かる仏教」無料メール講座
メールアドレス:
お名前:
 

豊臣政権を弱体化させた加藤清正と石田三成が仲違い、その理由とは

f:id:kikuutan:20170728191406j:plain

 

【布施(2)】


武断派と呼ばれる加藤清正と、文治派の石田三成との仲違いが、

豊臣政権を弱体化させ、家康の政権奪取を許したのは、

歴史上よく知られる話です。

 

加藤清正らからすれば、秀吉がまだ信長の一武将として

戦に明け暮れていたときから、共に戦い、武勲を挙げ、

天下統一を秀吉と共に成し遂げてきた自負がありますから、

すべて整ったあとに側近で大きな顔して指示を下す石田三成が

鼻持ちならなかったのでしょう。

 

石田三成としても、天下統一後の政権運営が、

その緻密さ、計画性、調整など、どれほど骨の折れる仕事か、

その重責がいかばかりか、お前たちには分かるまい、

文句ばかり言いやがって、と思っています。

 

唐入りの際も加藤清正らは、

異国で飢えと寒さをしのぎながら闘っている俺たちの苦労が

お前に分かるか、と不満のはけ口が石田三成に向きます。

 

三成は三成で、かつてなかった大がかりの兵站など、

オレにしかできない仕事だ、と寝食忘れて任務に取り組み、

槍を持って戦う猪武者とは違う、と強烈な自負があります。

 

天下に稀なる長所を持った二人でしたが、

お互いがお互いの長所を敬わず、相手の短所、欠点をあげつらい、

その軋轢が家康の工作に利用されました。

 

たいてい私たちは、自分が苦労してやっていることを、

やらない人、できない人がいると、気がつき、干渉したくなります。

そして自分がやっていないことを、

やっている人、できる人がいても、気がつきません。

気がついても、たいしたことだとは思いません。

 

加藤清正は石田三成のできることはできず、

石田三成は加藤清正のできることはできず、

その両者が相手のできることを尊重するのではなく、

相手のできないことを批判し合ったところに

悲劇が起きました。

 

三国志の諸葛孔明と関羽・張飛の関係も

最初こそ両者の間はぎくしゃくしますが、

孔明は関羽・張飛のたぐいまれな長所を敬い、生かそうとし、

関羽・張飛も孔明のたぐいまれな長所を敬い、信頼していき、

それが蜀の建国へとつながっていきました。

 

「他人の長所を発見して、ほめるようにしよう」

と仏教で説かれるのは、それが良い種まきだからです。

良い種をまけば、良い結果が生じます。

逆に、他人の短所をあげつらい、悪口ばかり言っていると

これは悪い種まきですから、不幸、災難の悪い結果が生じます。

「言うは易く、行うは難し」ですが、

少しでも良い種まきができるよう、前進していきたいものです。

 

=========

仏教に説かれた「生きる意味」を分かりやすく体系的に学べる

全20回の無料メール講座です。

今すぐこちらから。 

「一から分かる仏教」無料メール講座
メールアドレス:
お名前:
 

他人の欠点を言うのが好きな人と、人の長所を見抜くことのできる人との違い

f:id:kikuutan:20170727185457j:plain

 

【布施(1)】

 

よく言われることですが、最近自分でもそうだなと

つくづく感じられていることの一つに、

「人の欠点、短所を気付くよりも、人の長所を発見する方が難しい」

ということです。

 

文章の勉強のために、人の書いた文章を注意深く読み、

「この切り口と表現は上手いな」とか

「自分だったらこうは書かないな」と、こっそり評価しています。

そういう訓練をするようになって感じることは、

「短所を批判するのは簡単だ」ということです。

もちろん人のやり方や作品の欠点、短所に気付くのも、

幾分かの知識、感性がなければできないことなので、

気付ける、というのは、その人の一つの力量ともいえます。

しかしちょっと学べば、けっこう気付くことはできます。

 

気付いたときに、気をつけねばならないことがあります。

私達は気付いただけでは終わらず、気付いた欠点、短所を、

誰かに言いたくて仕方なくなることです。

人のやり方や作品をけなすことが自己主張の場となり、

「自分はこんなに見る目があるんですよ」と自慢になり、

相手を見下すことで優越感にも浸れることができ、

いろいろと気持ちが良いからでしょう。

だから人の短所を批判し、けなす人は、どこにでもいます。

 

対して「長所をほめるのが難しい」のです。

長所を発見できる人は、力のある人です。

長所が分かる人は、相当その分野で「できる」人、

または相当その道で「やってきた」人です。

そんな人は少ないので、人の長所を発見できる人は少ないのです。

「すごい」と言われる人の、どんな点がすごいか、ということも、

自分がある程度までいかないと、わかりません。

ある程度まで自分のレベルがいくと、

みんなが言う「すごい」とはこのことか、とわかってきます。

 

ましてや誰もすごいと言わない人のすごい点を発見できる人は、

よほど「すごい」人です。

砂利の中からダイヤの原石を見つけられる眼力の人ですから。

 

批判し、けなす人は、「じゃあお前やってみろ」とやらせると

できないことも往々にありますが、

長所を見抜ける人は、間違いなく「やってきた」人です。

 

仏教では「他人の長所を発見してほめるようにしよう」と

教えられます。

つい人の短所ばかり気付き、言いたくなる心を抑えなさい、

人の長所を発見し、引き出せるような人間を目指しなさい、

と勧められているのです。

=========

仏教に説かれた「生きる意味」を分かりやすく体系的に学べる

全20回の無料メール講座です。

今すぐこちらから。 

「一から分かる仏教」無料メール講座
メールアドレス:
お名前:
 

会者定離ありとはかねて聞きしかど

f:id:kikuutan:20170725204214j:plain

 

【会者定離(2)】

 


『会者定離 ありとはかねて 聞きしかど

      昨日今日とは 思わざりけり』

親鸞聖人のお歌です。

会者定離」とは仏教の言葉で、

「出会った人は必ず別れなければならない」ということ。

誰しも大切な人とはいつまでも一緒にいたいものですが、

この世は無常ですから、必ず別れねばならないときがあります。

嫌いな人なら、別れて清々するでしょうが、

愛する人との別れは、強い苦しみを伴います。

仏教ではその苦しみを「愛別離苦」といいます。

 

海外居住、卒業式などで、好きな人と別れる時は辛いですが、

生きているなら、また再会できます。

別れの中でも、特に辛いのは、死別でしょう。

散った桜は来年には咲きますが、消えゆく命は二度と戻りません。

もう一度会いたいと、どれだけ遺体にすがって泣き叫んでも、

かなわない、その厳然たる事実が、

さらに人を涙の谷底に突き落とします。

 

もう10年くらい前の話ですが、

30代で最愛の夫を突然の交通事故で亡くし、

女手一つで二人の子供を育て、ようやく下の子が大学に入り、

「時間ができたので」と仏教講座に来られた女性が

言われていたことが、今も心に残っています。

「夫を亡くしたとき、あの人一人だけがいなくなったのではなく、

家族みんなを包んでいる空気ごと、あの人は

あの世に持って行ってしまった」

と言われていました。

 

考えたくないですが、死は万人の将来ですから、

大切な人ともやがて必ず別れる時があるのを、

誰しも覚悟しておかねばなりません。

 

しかしどんなに覚悟していても、大切な人との別れは

「昨日今日とは思わざりけり」

まさかこんなに早くその時がやってこようとはと、

今起きている現実が受け止められず、

「早すぎる、嫌だ、嫌だ」と

悲泣せずにいられないものなのでしょう。

 

出会いと別れは旅人の一夜の宿

 f:id:kikuutan:20140616111939j:plain

 

 

【会者定離(1)】

 


「月日は百代の過客にして、往きかう人もまた旅人なり」

(松尾芭蕉)

人生はよく旅にたとえられ、人間を旅人にたとえられます。

旅にたとえられるのは、

旅にさまざまな出会いがあり、別れがあるように、

人生は出会いと別れの連続だからです。

 

3年前ですが、小学校3年生の時の担任の先生が

フェイスブックから「菊谷隆太君ですか」と

メッセージを送ってこられて、びっくりしたことがあります。

たった1年間、そんな個人的に話したこともない一生徒を

覚えていてくれたことに感激し、

「教師ってすごいな」と嘆息しました。

私を担当されたとき、その先生はまだ大学出たてでしたが、

今は結婚されて姓も変わり、転職されていました。

いつか直接お会いできたらいいなと思います。

 

こんなパターンは珍しい方かもしれません。

私は子供の頃、2回引っ越したこともあって、

幼なじみとはもう40年近く顔を合わせず、音信もないですが、

ほとんどの人とは、二度と会えないような気がしてます。

 

その後も中学、高校と、打ち解けたり、ぶつかったり、

いろいろな人との思い出もあり、

「あいつ、どうしてるかな」とふと思うこともあっても、

再会できる日がくるかどうか。

また同窓会などで会えればいいのですが、

一生涯、再会できずに終わる人が多いと思います。

あの時はあんなに好きになったり、嫌いになったり、葛藤したり、

陰に陽に私の人生に影響を与えた人たちですが

今となっては、どこで何をしているのやら・・・

 

そう考えると、今、私の近くにいて、

泣いたり、笑ったり、怒ったりしている人たちも

やがては「どうしてるかな」と、

懐かしく思い出す人となっていくのでしょう。

 

江戸時代、街道筋を旅する人が、旅先の宿屋で同宿して、

囲炉裏を囲んで酒や煙草をのみながら、旅の思い出などを語り、

朝が来るとめいめいの方向に歩いて、もう二度と会わない、

そんな一夜の旅の道連れが、人生で出会う人、といえましょう。

 

いずれにせよ会者定離
 
出会いがあれば、必ず別れもあります。

『会者定離 ありとはかねて 聞きしかど

 昨日今日とは 思わざりけり』

35歳で流刑になられる親鸞聖人が、

恩師、法然上人との痛恨の別れを惜しんで詠まれた歌です。

 

大切な人との別れはひょっとしたら今晩かもしれません。

『一期一会』という言葉もあります。

好きな人ともしばらくの間。

嫌いな人ともしばらくの間。

いずれも、かけがいのないご縁と向き合っていきたいものです。

=========

親鸞聖人の教えられた「生きる意味」を分かりやすく体系的に学べる

全20回の無料メール講座です。

今すぐこちらから。 

「一から分かる仏教」無料メール講座
メールアドレス:
お名前:
 

あなたになぜそんな事件や事故は起きたのか、それには原因がある

f:id:kikuutan:20170721203845j:plain

 

 

【法鏡(1)】


私は20代の頃、追突事故に遭いました。

後ろから追突されたのですが、一般道で

相手の車がスピードを出ていなかったこともあり、

怪我も後遺症もなく済みました。

 

警察が立ち会い「追突した側の不注意」と判断したので、

賠償責任は10対0という結果でした。

相手の人も私と同じ歳くらいでしたが、

「ぼぉーっと運転してた」と、しきりに平身低頭、

謝ってこられました。

私も「気にしないで下さい」と返したのですが、

その時、実は私も自分に非があることを、少し感じていました。

 

というのは私の前の車が、通り沿いにある店に入る際、

右折するために突然ブレーキをかけたので、

後ろにいた自分もあわててブレーキをかけたからです。

ブレーキ音こそなかったものの、私自身、

ぶつからなくて良かったと焦るほどの急ブレーキでしたから、

すぐ「後ろの車は大丈夫かな」と心配になり、

バックミラーに目をやりました。

案の定、後ろの車は気付くのが遅く、身構えた瞬間、

ガチャンとぶつかってきたのです。

 

事の発端は、私の前の車の急なブレーキなので、

前の車は事故原因の大きな割合を占めていたと

今でも私は思っていますが、

もちろんその車は、警察の立ち会いもなく、

何のおとがめも、損害もなしです。

でもおそらくその運転手も、自分が事故の原因になった自覚は

あったと思います。

 

私も車間距離が近かったので、かなりの急ブレーキでした。

もっと私が車間距離をあけており、余裕を持ってブレーキをかけ、

後ろの車にブレーキランプで早めに知らせられれば、

事故が起きなかった可能性が大きかったので、

私にも原因があったと思っています。

 

しかしあくまでも警察の判断は「追突した人の前方不注意」です。

 

およそ何かの事故、事件、不祥事が起きるときというのは、

このときの追突事故のように、

いくつもの複数の要因が重なって起きるのだと思います。

わかりやすく、明らかに問題だった人が

原因とされ、責任をかぶることが多いですが、

背後には複雑な原因があるのだろうなと感じます。

 

会社で不祥事が起きて、責任取って辞職する社員がいます。

その社員のミスが原因で、会社に損害を出したからですが、

そもそもミスを防げるシステムがなかったとか、

その社員に仕事の負荷がかかり過ぎていたとか、

いろいろな要因が重なり、大きな不祥事を生んだといえます。

 

奥さんが浮気して離婚、多額の慰謝料を払い、

両方の親族からも罵倒され、という場面がありますが、

これも奥さんが原因ではありますが、

奥さんをそうさせてしまった原因まで遡れば、

夫や周りの環境にもあったかもしれません。

 

殺人を犯した人であっても、その人の家庭環境、生い立ち、

現在の境遇など調べると、その人を犯罪に走らせた要因は

多々見えてきます。

 

もちろんミスをした社員、浮気した妻、殺人を犯した人は

その報いを受け、深い反省をしなければなりませんが、

その人の人格だけを問題にして、周り中が責めて終わり、

というのはどうかと思います。

 

ある30代の男性から聞いた話です。

小学生の時、彼はあるウソをついたことで、

多くのクラスメイトに迷惑をかけ、

クラスの友人やその親、さらには自分の親からも

人格を否定されるようなことを言われたそうですが、

担当の先生だけは

「どうしようもない理由があったんではないか」

と全部話を聞いてくれたそうです。

「ちょっと前までは全然ウソつくつもりなかったのに、

うっかり言ってしまうことはあるんだ、わかるよ。

今お前の話聞いたら、そう言ってしまう気持ちも分かる。

でもたとえそんな時でも、ウソは言っちゃいけないんだよ」

と言ってくれたそうです。

 

その担当の先生の言葉に救われたと言っていました。

今でもその先生には、年賀状を送るそうです。

 

=========

仏教の教えを分かりやすく体系的に学べる

全20回の無料メール講座です。

今すぐこちらから。 

「一から分かる仏教」無料メール講座
メールアドレス:
お名前:
 

=========


仏教の教えをわかりやすく体系的にお話する

20回の無料メール講座好評配信中。