親鸞に学ぶ幸福論

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癌の恐怖を解決するために、先ず知らなければならない事実とは

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【後生の一大事(1)】


がん治療の現場では、

「通常医療ではダメだ」という人と、

「代替療法はあてにならない」という人が、

侃々諤々(かんかんがくがく)言い合っています。

 


代替療法を主張する人も、その方法となるとさまざまで、

食事で、カウンセリングで、漢方で、気功で、温泉で、催眠で、

と多くの主張に目移りします。

一口に食事療法といっても、キノコだ、水だ、果物だ、と

またいろいろあります。

そしてそれぞれのやり方が「がんが消えた!」を宣伝文句に

「医師も認めた」「データで証明」「治った体験談」があり、

そうかと思えば違うサイトでは

「浅薄な屁理屈を並べたインチキ」「誇大広告だ」

とも言われています。

 


本当にがんが消えるのなら、と

いくらでもお金を出す患者がいますから、

がん医療ビジネスに乗り出す人は後を絶ちません。

食事でがんを治すとうたった本は、定番の売れ筋本です。

毎年、何かの治療法がブームになって、

カリスマ扱いされる人がメディアに登場します。

 


さて、本当に効き目があるのはどんな治療法なのか、

ここに患者は真剣に悩みます。

どの治療法を取るか、その取捨選択には、

自分の命がかかっているのですから、真剣になって当然です。

お金や時間を惜しむところではないでしょう。

 


しかしよく考えてみれば、たとえがんが治っても

再発するかもしれません。

再発はしなくても、病気はがんだけではありません。

またいつどんな病気になるかわかりません。

 


さらにいえば、病気が治っても、死ななくなったのではありません。

いつかは必ず何かの病気か事故で死ぬのです。

がんは脅威ですが、がんに怯える人の、その真のおびえの原因は

「独りぼっちで死んでいかねばならない」厳粛な事実であり、

死んだらどうなる のか」未来真っ暗闇の怖れだと、

釈迦は喝破しました。

人間の真の脅威は「死」だと見抜かれた釈迦は

これを「生死の一大事」「後生の一大事」と言われました。

この一大事の解決一つを目的にしているのが、仏教の教えです。

 

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憎しみ、怒りの負の感情をさっと消す智恵とは

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【因果の道理(3)】


いがみ合う二人の女性。

「私がこんな目に遭うのは、あの人のせいだ」と

怒りとうらみで身を焦がす一方の女性があなたに、

延々と自分の思いを感情的にぶつけてきたとします。

 


こちらが客観的に見ると、その怒りをぶつけている本人の方が

よほど問題が大きいという場合でも、

「自業自得、運命は己の蒔いた種まきの結果ですよ」

などと説こうものなら、大変なことになります。

あなたの意見は、余計その人の怒りの火に油を注ぐ結果となり、

あなた自身にも火炎放射器は向けられることになるでしょう。

 


そんな時は「ほんと、あなたは何も悪くないのにね」と慰め、

同意するしかないでしょう。

理屈から言うと、その人の主張は聞いておれないほど

我が身知らずの一方的な意見ですが、

その理屈を語って理解してくれる相手ではない、

感情で判断して、感情でしゃべっているのですから、

こちらもそんな時は理屈を捨てて、その人の感情に共感して、

「自分もこの立場ならこう思うだろうなあ、

そしてこの人のように苦しむだろうなあ」と同情し、

慰めるしかありません。

そんな時は、聞くこちらも理屈を捨てて、

感情で相手を理解しなければなりません。

 


もちろん「あなたは悪くないんだよ」との聞こえのよい慰めは

一時的な解決に過ぎませんから、

またケンカ相手の顔を見たり、言動に触れれば、怒りは再燃し、

事態は少しもよくなりません。

いつかはその人自身が、すべては自業自得だったと認めない限りは、

その人に心の平安はやってきません。

我が身の不幸は、己の悪いタネまきの結果だと受け止めたら、

その瞬間にうらみ、憎しみ、怒りの負の感情は、

熱いお湯の中に投じられた一片の雪のように、

さっと消えますので、慰めなど要らなくなります。

 


しかしそれを理解するのは、並大抵ではありません。

お釈迦さまの大雄弁をもってしても

自業自得の因果の道理に万に一つも例外がないことだと、

分かるように説き明かされるのに、

大変な年月をかけておられることからも、それはわかります。

 

 

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理不尽としか思えぬ運命を仏教はどう教えるか

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【因果の道理(2)】

 


テレビで北朝鮮の様子が報道され、

赤黒く日焼けし、頬がこけた民衆の映像を見たりすると

「もしあの国に生まれていたら、

自分は今のような生活を送っていなかったんだな」と

運命の不可解さを考えさせられます。

顔も日本人とよく似ているから、余計そう思うのかも知れません。

 


韓国の人たちは北朝鮮の人たちとは同一民族で、

同じ言葉、同じ歴史を共有しているのに、

冷戦で分断され、70年間の国家体制の違いで

あまりに違いが生じているので、

日本人の私以上に「もし自分が38度線のあちら側だったら」と

思いを馳せることがあると思います。

 


住んでいる場所は同じでも、時代が違えば、

相当また運命は違っていたでしょう。

日本は敗戦により、価値観も教育も大きく変わりました。

もしあの当時に私が生まれていたら、

どんな生き方をしていただろう、

どんな人間になっていただろう、

少なくとも、自分の思想、信念、好き嫌い、表情、体格

いろいろと今とは相当変わっていただろうと思います。

 


どんな両親の元に生まれたかによっても、運命は大きく変わります。

難関大学の生徒の家庭の平均収入は、

全国平均を大きく上回っていることは、よく知られる事実です。

もちろん受験生の努力もあって合格したのですが、

私立の中・高一貫校で学び、帰宅するとお母さんが家にいて、

そのあと塾にも通い、といった環境は、

親の年収が高くないとできないことであり、

そのような環境が受験の成否に大きく関係しています。

 


世の中には不公平なこと、理不尽なことはいろいろあります。

がんばっている者は評価されず、

アピール上手な者が出世するとか、

同じミスをしたのに、発覚したタイミングによって、

一方は左遷されたのに、一方は問題にもされないとか。

そんな時、私たちは「不公平だ、おかしいぞ」と腹を立てますが、

考えてみれば、この世のどこにも、

何の理不尽な点もない、すっきりした公平な社会など、

ないのですよね。

 


だいたい先ほど述べたように、生まれた最初のスタートから

公平で平等なんて、もうありえないのですから。

どの国に生まれたか、どの時代に生まれたか、

どんな親の元に生まれたか、

美人に生まれたか、そうでなく生まれたか、

健常者で生まれたか、障がいを持って生まれたか、

最初から不公平です。

平等なことがあるとしたら、

「世の中の人みな、不公平だという思いを抱えて生きている」

ということくらいでしょう。

 


ではその不公平としか思えぬ運命は何によって決まるのでしょう。

運のいい人、運の悪い人、

一人ひとり異なる運命は、いったい誰が決めたのでしょうか。

神か? 霊のタタリか? 偶然のいたずらなのか?

これこそ全生涯の命運を左右する、根本問題です。

この人類の最大関心事に、仏教は『業(カルマ)』の存在を説き、

その答えを鮮明にされています。

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果報は寝て待て。貯金してると思って。

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 【因果の道理(1)】

 
【すぐに結果が出るもの】よりも

【すぐに結果が出ない】ものの方が、より価値があるものです。

「今学んでいることが、いつ結果を結ぶのだろうか」

そんなことは考えないこと。

 


「果報は寝て待て」のことわざの如くに構えていたらよい。

実はこのことわざ、仏教の因果の道理を教えているのです。

因果の道理とは、易しい言葉でいうと

「まいた種は必ず生える。まかぬ種は絶対に生えない」

ということです。

 


「果報は寝て待て」ということわざは、よく誤解されているような、

ごろごろ寝転がっているうちに、突然幸せが舞い込んで来る

という意味ではありません。

こつこつと努力を続ければ、いつか必ず結果が返ってくるのだから、

結果が出ないといって、「あせるな」「イライラするな」

「やめるな」ということです。

なかなか結果に結びつかないからとって、もう少しというところで、

放り投げてしまう愚を戒めたことわざです。

 

こつこつやっていれば、必ず実を結ぶんですから、

結果が来ない時は、貯金していると思ったらいいのです。

貯金はすぐ引き出さない方がいい、

放置しているものほどいい。

給料から10%自動に天引きされるようにして、

あとは貯金していること自体、忘れてしまったらどうだろう。

10年たってからふと気付いて

(あれ、オレって貯金してなかったっけか??)

と、残高見てびっくり。

そんなのが望ましいです。

 

今の努力が、10年後、20年後に身を結ぶこともあります。

すぐに結果を出さなきゃと、問題にしないこと。

すぐに結果が出てくるのは、あまりたいしたことない。

結果までのスパンが長いもののほうが、より値があるものです。

親鸞聖人が最も心血を注がれた『教行信証』ご執筆とは

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教行信証(3)】


親鸞聖人の主著『教行信証』についてお話しを続けております。

大綱(おおまかな内容)が成立した時期は、

常陸(茨城県)におられた、聖人五十二歳ごろと言われます。

その頃の聖人は、関東一円を精力的に布教に回られていた時期です。

赴かれた関東の地を調べると、

居を構えられた常陸(茨城県)の各所はもちろんのこと、

下総(千葉県)や相模(神奈川県)など大変な距離を歩かれ、

各地で説法をされています。

 


あんな激しい布教活動の最中に、

いつあの大部な『教行信証』全六巻を書かれたのだろうか、

と驚きを禁じ得ません。

日中に歩かれ、説法され、帰宅後、疲労困憊されてもなお

何としても伝えなければならないことがあると筆を取られ、

『教行信証』を執筆されたのでしょう。

 


では、親鸞聖人がそうまでして伝えられたかったことは

何だったのか。

それは「絶対の幸福」の厳存でした。

絶対の幸福」を親鸞聖人は『教行信証』に

「不可称・不可説・不可思議の幸福だ」と言われています。

不完全な言葉で、絶対の幸福は表現できないので、

「不可説」の絶対の幸福、と言われたのです。

言葉で表したものは真実の救いではない、

しかし言葉でしか教える術はない。

「不可説」と知りつつ、困難性と危険性と重大性を深く理解され、

その上でこうも説いたら分かってくれるか、

ああも話したらよかろうか。

どう説明したら正しく理解し、求めるようになってくれるのか。

『教行信証』六巻に、あらゆる言葉を尽くし、表現を極めて、

縦横無尽に根拠を引かれ、絶対の幸福の厳存を示されています。

だが、とどのつまりは、「不可称・不可説・不可思議の幸福だ」

と言うよりなかったのです。

 


親鸞聖人の小説や映画でよく描かれるのは、

流刑の地、雪深い越後で窮乏と戦いながら、

村人に仏法を伝えていかれたご苦労とか、

関東で剣をかざして自分を殺しにきた山伏弁円にも、

殺されるのを覚悟の上で仏法を伝えられたご苦労などです。

これら数多くのエピソードから、聖人が大変なご苦労をされ、

仏法を伝えてくだされたことを感謝する人は多いのですが、

それ以上に聖人が最も心血を注がれ、最も悩まれ、

最もご苦労されたのは、

この「不可説」の絶対の幸福をどう伝えればよかろうか、

のご執筆のご苦労でした。

 


『教行信証 』を臨終まで推敲を重ね、

加筆修正を続けられた筆の跡を拝見すると

「これでよい」とはもう思われず、果てしなく悩まれ、

「どうしたら」「どうしたら」と挑戦し続けられた

聖人の戦いの跡と拝さずにおれません。

 

 

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教行信証全巻には大歓喜の声が響きわたっている

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【教行信証(2)】


親鸞聖人の主著『教行信証』について

先回に続き、話しをいたします。

 


『教行信証』全六巻は「よろこばしきかな」で始まり、

「よろこばしきかな」のお言葉で終わります。

絶対の幸福に救い摂られた聖人の、

書いても書いても書き尽くせぬ喜びが全巻にあふれています。

文芸評論家の亀井勝一郎氏も、

「『教行信証』全巻には大歓喜の声が響きわたっている」

と驚嘆しました。

 


私たちも時に「ああ、幸せ」と高揚感に包まれることがあっても、

何か起きると、あの幸福感はどこへやらで、

すぐ憂鬱な思いが胸一面を襲います。

なまじっか幸福の座に上がると、何も起きる前から、

その幸福の座からいつ引きずり下ろされるかと戦々恐々とし、

よけい悶々と悩むものです。

 


親鸞聖人が獲られた絶対の幸福は、

そんな、今日あって明日どうなるか分からぬ幸福ではありません。

色あせることも薄れることもない安心、満足を

聖人は『教行信証』に高らかに謳い上げられており、

その熱火の法悦が、八百年の時を超えて、読む者の胸を打ちます。

 


絶対の幸福は、私たちが頭でこねくり回して、

「考えてみれば幸福な方だよ」

「ああいうのと比べたら今を感謝しなきゃ」

と言い聞かせなければならないものでもありません。

それは『教行信証』の冒頭から、

絶対の幸福になられた親鸞聖人の燃えるよろこびが、

ビンビン伝わってくることからもわかります。

「あいがたくして、今あうことをえたり」

「聞きがたくして、すでに聞くことをえたり」

あいたくてあいたくて求めていたものに、今あえたという、

聖人のほとばしるよろこびの告白です。

 


ではこのように親鸞聖人が筆を取られ、

ご自身のよろこびの告白を紙に残された目的は

いったいどこにあったのでしょうか。

ふつう人に何かを話す時、誰かに向かって何かを書く時には、

目的があります。

話しているその人にどういう気持ちになってもらいたいのか、

読む人にどんな思いを持ってもらいたいのか、

相手があって話したり、書いたりするのです。

 


確かにただうれしさのあまりのろけたり、

つい自慢したりすることもあるにはありますが、

教行信証がそんな一時的な感情や思いつきでないことは

あの緻密な構成、徹底した推敲の跡からもよくわかります。

どんな困苦にも打ち克って「これ一つ伝えたい」という

何か強烈なメッセージがなければ、断じて書ける書ではありません。

 


では聖人が絶対の幸福の境地を語られた目的は何だったのか、

それは

「すべての人に絶対の幸福があることを知らせたい。

親鸞と同じ心になってもらいたい」

これ一つでした。

「道俗時衆共同心」

“すべての人よ、どうか親鸞と同じ心になってもらいたい”

これが親鸞聖人の真情でした。

 


「絶対の幸福なんかなれるもんか」

「私みたいな者には無理だよ」

としか思えない私たちに
 
 「なれるんだよ。生きている今、なれる時がある。

すべては他力(阿弥陀仏のお力)だから、皆なれるんだ」

と、親鸞聖人は『教行信証』で励まし続けておられます。

 

教行信証の摩訶不思議な魅力の源泉はどこにあるか

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【教行信証(1)】


親鸞聖人には数多くの著作がありますが、

最も心血を注がれた聖人の主著は『教行信証 』全六巻です。

親鸞聖人の信心と教義のすべてが記されているこの著作を

浄土真宗では「根本聖典」、略して「御本典」といわれます。

 


親鸞聖人の教えを知りたければ『歎異鈔』を読め、

と言う人が多くいます。

確かに『歎異鈔』は美しい文章で読んでいて心地よく、

仮名交じりで読みやすく、多くの人に愛読されますが、

親鸞聖人の教えを正確に知ろうとした時には、

『教行信証』を拝読する以外にはありません。

 


成立時期は、聖人五十二歳、常陸(茨城県)におられたころです。

しかし亡くなられるまで加筆修正を繰り返され、

何度も推敲を重ねられていますので、

まさに聖人畢生の大著といえましょう。

 


『教行信証』をどのページでもいい、開いてまず目に引くのは、

膨大な経典や注釈書からの引用でしょう。  

親鸞聖人はご自身のなされた解釈の後に、

それを裏づける経典、またインド・中国・日本の高僧方の著作を

縦横無尽に引用され、根拠として示しておられます。

「さらに親鸞私なし」

“親鸞が勝手に言っていることは一つもない。

釈迦の教えを明らかにする、その使命に生きるのみだ”

生涯貫かれた聖人の精神は、

この『教行信証』に、いかんなく打ち出されています。

そういった意味では、学究を極めた者同士が

真剣勝負で是非を論じ合う、あいまいさを排除した学術論文を

読むような感があります。

 


ところがその一方で、教行信証に書かれた聖人の一文一文は、

なんともいえない不思議な魅力にあふれているのです。

哲学者の三木清は『教行信証』を評して

「根底に深く抒情を湛えた芸術作品」と言っています。

私も親鸞聖人の教えを学び始めた18歳の時、

まだ仏教のイロハが何たるかも分かっていなかった時期でしたが、

『教行信証』を初めてパラパラと読んだ時、ところどころの文章に、

言葉も文章の構造も、現代とまるで違うのに、

聖人の息遣いまで感じるような、何かすさまじい迫力と臨場感を

確かに感じました。

 


教行信証は不思議な書です。

厳めしい学者の論文のようのも見え、固い古典のようでもあり、

それでいて、情熱の丈を言葉に込めた詩を

読んでいるような感もあります。

そのことを前述の三木清は

「『教行信証』は思索と体験とが渾然として、

一体をなした稀有の書である」

とも評しています。

 


では、多くの人を魅了して止まぬ『教行信証 』の、

不思議な魅力、迫力の源泉は、いったいどこにあるのでしょうか。

 


それは親鸞聖人が体験された

「心も言葉も絶え果てた」絶対の幸福の境地にあることを

ハッキリと知ることができた人は、幸せな人です。

 

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