親鸞に学ぶ幸福論

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電光・朝露の、夢幻の間の人生に意味はあるか

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【人身受け難し(1)】


十和田湖が形成されたのは約千年前だそうです。

地質学者は「出来たてホヤホヤだ」と言います。

千年前というと、日本では平安時代、

ヨーロッパでは第一次十字軍、バイキング活躍の時代。

遥か遠い昔に思えますが、

地球の歴史から地質を考察する地質学者の見地からすると、

千年という単位は「出来たてホヤホヤ」なんですね。

 


地質学者からそういう説明を聞いたタモリが、

「地球ができて46億年、その中での千年というのは、

ちょうど46億円の財産を持っている人が

千円使うみたいなものなんでしょうね」と、

わかりやすく例えていました。

確かに46億円持ってる金持ちには、千円は、はした金でしょう。

 


私たちが生まれてから死ぬまでの「人生」を、

仏教では『現在世(現世)』といいます。

それは長くても100年足らずで終わりますが、

仏教では、『現世』に生まれる前に、

限りなく生死を繰り返してきた『過去世(前世)』があり、

死んだ後も、永遠に生死を続ける『未来世(来世)』がある

と説かれています。

これを仏教では『三世』といいます。

『過去世(前世)・現在世(現世)・未来世(来世)』です。

 


この三世を貫く永遠の生命が、本当の「私」であり、

「私」の歴史は、地球46億年どころではありません。

何億年×何億年より永い、無始無終の生命なのです。

 


その永遠の生命にあって、今、こうして生を受けている

『人生』『今生』『現世』とは、

滔々と流れるガンジスの大河の水面に浮かんだ泡の一つです。

ぱっとできて、しばらく水面に流れて、

ぱっと消える泡のようなものだと説かれています。

 


かかる永遠の生命観に立つ仏説から見る人生を、蓮如上人は

『人間はただ電光朝露の、夢幻の間』といわれています。

パッと光って消える稲光、瞬く間に消える朝露のような人生、

ということです。

そうなると私たちの人生は、46億円の資産家の千円以上に、

はした金、ならぬ、はした人生になってしまいます。

その一瞬の朝露のような人生に意味があるのでしょうか。

 


この一瞬の人生にお釈迦さまは「尊い目的がある」と

宣言されました。

「迷いを続け、流転を重ねてきた永遠の生命に終止符を打ち、

未来永遠の幸せになれる素晴しい目的が、

この一瞬の人生に存在する。

だからこの一瞬の人命に、尊く、かけがえのない価値があるのだ」

と説かれているのが、仏教です。

 

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的外れの悪口への対処法

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悪口(4)】


悪口を言われたとき、どうすれば心が穏やかになれるか、

二つの仏の智恵を紹介しましょうとお話ししました。

先回はその一つ、「向上のご縁とする」とお話ししました。

的を得た批判ならありがたく反省するご縁とできます。

またそう受け止めることで、心は前向きに、穏やかになります。

 


しかしこれは悪口が「的を得た批判」であった時の対処です。

的外れな非難中傷だった場合は、どうしたらいいでしょう。

それが今日お話しするもう一つの方法、

「受け取らない」という対処です。

 


悪口を受け取らないとはどういうことか、

一つのエピソードをまず紹介しましょう、

=====

白隠の寺の門前に酒屋があった。
そこに器量で評判の娘がおり、結婚もしないのに孕んだのである。
目だつにつれ悪事千里、噂は世間に広まり父親は強く娘を責めた。

真実を告白すれば大変だと思った娘は、
白隠さんは生き仏といわれるお方、白隠さんの御子だと言えば、
なんとか事態は収まるだろうと、
苦しまぎれに、そっと母親に打ちあけた。

「白隠さんのお種です」

それをきいて激怒した父親は、早速土足のままで寺へ踏み込んだ。

「和尚いるか」と面会を強要し、
口から出まかせの悪口雑言を喚いても尚腹立ちは収まらず、
生まれてくる子供の養育費を催促した。

さすが白隠。
「ああ、そうであったか」といいながら、若干の養育費を与えた。

まさかとそれまで信じていた人達も、
これをきいてやっぱりニセ坊主であったのかと、
噂はパッと世間に広まった。

聞くに耐えぬ世間の罵詈讒謗をききながら白隠は、
「謗る者をして謗らしめよ、言う者をして言わしめよ。
 言うことは他のことである。受ける受けざるは我のことである」
と、少しも心にとどめない。

思いもよらぬ反響に酒屋の娘は苦しんだ。
遂に真実を親に白状せずにおれなくなった。
親はことの真相を知って二度びっくり。
早速、娘を連れて寺へ行き平身低頭、
土下座して、重ね重ねの無礼を深く詫びた。

その時も白隠は「ああ、そうであったか」と頷いただけ、という。

=======

ここで白隠は「私は悪口を受け取らない」と言っているのですが、

これは白隠が悪口を言われたときにどうあるべきか、

お釈迦さまの教えをよく知っていたからこそ、

こういう言葉になったのでしょう。

 


ではお釈迦さまの教えられる「悪口を受け取る」とは、

どういうことなのでしょうか。

こういうエピソードがあります。

=====

あるとき、外教徒の若い男がお釈迦様の所にきて、
さんざん、悪口を言った。
黙って聞いておられた釈尊は、
彼が言い終わると、静かにたずねられた。
「おまえは祝日に肉親や親類の人たちを招待し、歓待することがあ
るか」
「そりゃ、あるさ」
「親族がそのとき、おまえの出した食べ物を食べなかったらどうす
るか」
「食わなければ、残るだけさ」
「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、
その悪口雑言は、だれのものになるのか」
「いや、いくら受けとらなくとも、与えた以上は与えたのだ」
「いや、そういうのは与えたとは言えない」
「それなら、どういうのを受けとったといい、
 どういうのを受けとらないというのか」
「ののしられたとき、ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば
打ち返す。 闘いを挑めば闘い返す。それらは与えたものを受けと
ったというのだ。しかし、その反対に、なんとも思わないものは、
与えたといっても受けとったのではないのだ」
「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」
釈尊は、おごそかに、偈(うた)で答えられた。
「智恵ある者に怒りなし。よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。
 怒りに怒りをもって報いるは、げに愚かもののしわざなり」
「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」
外道の若者は、落涙平伏し帰順した。

=====
 
悪口を言われて、悪口で返すのが、「受け取った」ということだと

釈迦は説かれています。

悪口を言うか、言わないかは、向こうさんが決めること。

その悪口を受け取るか、受け取らないかは、

こちらが決めさせてもらう。

向こうが決めることではありません。

 

悪口を言われてクヨクヨした時に思い出したい思考法

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【悪口(3)】

 

悪口を言われると、つらいですよね。

ちょっとなんか言われても、すぐクヨクヨしてしまいます。

食欲も落ちますし、夜も寝付けなくなるし・・・。

職場や、家庭や、学校で悪口を言い触らされ、

苦しんだ経験は皆お持ちかと思います。

そこで今回と次回とで、悪口を言われてつらい時、

その心が軽くなる2つの仏の智恵を紹介いたします。

 


その1つは「向上のご縁とする」こと。

2つ目は「受け取らない」こと。

今回は1つ目の「向上のご縁とする」についてお話しいたします。

 


「私がAさんに悪口を言われた」ということは、

「私の短所をAさんが指摘してくれた」といえます。

どんな人にも長所と短所がありますが、

自分の短所、欠点を、人にはよく見えても、

自分自身は気付かないことが往々にしてあります。

気付いていたとしても、軽視しがちです。

相当痛い目に遭って初めて気付くことが多いのですが、

痛い目に遭わないうちに、転ばぬ先の杖とばかりに

自分には気付かない短所を、

ご親切にAさんは教えてくれる存在ともいえます。

 


Aさんが自分に悪意を持っていて、

だから短所をめざとく見つけ出し、

人にもそれを針小棒大に言い触らしているのかもしれない。

でも指摘していること自体は、確かに一理ある、と思ったら、

そこを直して、より向上できるということです。

誰からの言葉であろうが、「改むるにはばかることなかれ」で、

直して向上した方が、自分にとって得なのですから。

 

親鸞聖人の教えを正確に、日本全国に伝えられた方が

蓮如上人ですが、その蓮如上人が悪口について、

こう言われています。

「自分の前では言わず、陰でこそこそと自分の悪口を言う人が

あれば、腹を立てるのが普通だ。

しかし、私はそうは思わない。

私に面と向かって言いにくい批判があれば、

陰でもよいから言ってくれ、

それが回り回って自分の耳に入ったら反省して直すから」

 


普通なら悪口が回り回って聞えてきたら、

「ふざけるな!陰でこそこそ悪口言いやがって!

言いたいことあったら堂々とおれの前で言え」

という気持ちになって当然です。

ところが蓮如上人は

「批判というのは、その人の前ではいえない。

まして年齢も重ねて、立場もある私に言ってくれる人はいない。

だから私は自分の悪いところにも気づけない。

言いにくかったら陰ででも批判してくれれば、

それが回り回ってやがて私の耳にも入ってくるだろう、

それを聞いて直すから」

と言われています。

 


この言葉で思うのは、蓮如上人という方は、

向上心の塊のような方だったんだなということです。

日本中の人から「上人さま」と尊敬され、何百人という弟子を持ち、

普通なら完璧な人間のように自惚れてもおかしくないですが、

上人は「少しでも足りないところを改めていこう」と

常に前進された方だったんだな、と深い感銘を受けました。

こんな蓮如上人だったからこそ、人々はさらに慕い、

尊敬していったのでしょう。

 


蓮如上人だけではありません。

頭角を現す多くの成功者は、

「批判する人たちの意見には、

価値のある重要な暗示を含んでいる可能性がある」

と語ります。

○「腰をすえて悪いニュースに耳を傾けるのです。

  うまくいっていることに、私は関心がありません」

   カルロス・ゴーン(ルノーCEO)

○「バッドニュース・イズ・ファースト」

   鈴木 敏文(セブン-イレブン・ジャパン会長)

○「悪い情報はゴシップでも上げてこい」

  奥田 碩 (第8代トヨタ自動車社長)

 


たとえ悪口が誤解によるものであってでも、

向上のご縁にはできます。

こういうことを言ったり、やったりすると、

誤解を招くんだな、不審を抱く人がいるんだな、

ならば今後はこうしてみよう、と学習できます。

 


ではまったく向上のご縁にできない、

ガラクタのような悪口はどうするか。

それについては、「受け取らない」という、

もう一つの解決法があります。

それについては次回、お話しいたします。

 

悪口は老化を促進する

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【悪口(2)】


脳科学者・中野信子さんが

悪口は老化を促進する」と書いていました。

嫌いな人の悪口は、つい言いたくなりますが、

言った分だけ老化が進んでいるようです。

そのメカニズムは、

「悪口を言い続けていると、主語が認識できない脳は、

自分自身に悪口を言っていると勘違いして気分が悪くなり、

ストレスが発生し、脳や身体にダメージを与え、

老化につながってしまう」とのこと。

よって悪口は、言う人も、聞く人も、

聞かされる人も悪影響を及ぼすということです。

 


悪口は喫煙のようなものとも言えます。

喫煙は、吸っている本人が健康を害するだけでなく、

その人の吐いた煙草の煙(副流煙)を吸い込む人にも害を与えます。

悪口も、言った本人にストレスを与え、

聞かされる人にもストレスを与えるからです。

 


あなたが現在、悪口を言っている人、あるいは言いたくなる人は、

あなたにストレスを与えている人ですが、

もしあなたがその人の悪口を止めて、

その人の長所を伸ばすために自分ができることはないか、

その人に感謝すべきことが自分にないか、

その人の苦しみを軽くすることが自分にできないか

敢えてそういう問いを発してみると、ただそれだけで

ストレスはさっと軽くなります。

実はストレスはその人が原因ではなく、

自らが口にしている悪口と、その人を悪く思う心が

原因であったことに気付くでしょう。

 

サイコパスと言われた人の気持ちを考えよ

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悪口(1)】


先日、ファミレスで妻と食事していたところ、

隣の30代くらいの2人の女性の会話が漏れ聞こえてきました。

2人の共通の知人の誰かのことを

「あの人、サイコパスだと思う」「やっぱりそうだよね」

と言い合っているのです。

「いや、その呼称は軽々しく人の評価に使っちゃダメでしょう」

と思わず横から言いそうになってしまいました。

 


サイコパスとは猟奇殺人、大量殺人鬼に見られる人格障害であり、

そうでなくても、その予備軍とされ、

良心や善意のない人、人を人と思わない人格です。

 


脳科学者が書いた『サイコパス』という本がベストセラーにもなり、

最近は世の中に認知される言葉になりました。

本を手に取って「あ~、あの人のことだ」と勝手に、

自分の嫌いな人に当てはめて読んだ人が多いと思います。

そして人に「あの人、サイコパスかも」とまた言うものだから、

サイコパス疑惑、サイコパスの嫌疑をかけられている人が

職場でも、家庭でも、クラスでもいる、という現状です。

 


私たちは、自分をいらつかせる人を指して「あれはエゴイストだ」

「あの人は自己中だ」「冷たい人」「自分のことしか考えてない」

と悪く言いますが、その新たな悪口の形に

「あれはサイコパスだ」が登場しているように思います。

 


自己中だ、冷たい人だと言われても嫌ですが、

それならまだその人の主観による評価ですが

サイコパスだと言われたら、先天的な人格障害ですから、

そんなレッテルを安易に人につけていいものではありません。

 


私も人と接する仕事ですから、

中に本当に常識では理解できない人がいるのは理解していますし、

身を守るためには、誰でも彼でも気を許してはならない

のはわかります。

しかしあまりに安易に人をサイコパス呼ばわりする危険性を

憂慮しています。

 


人を評価するとき、褒め言葉よりも悪口の方が

強力に伝播していきます。

「あの人が○○さんのことをこう言っている」と、

どんどん広まっていく。

また聞く人も褒め言葉より悪口の方が、

信じやすく、影響を受けやすいのです。

だからたいてい悪口は、本人まで伝わります。

少々のタイムラグはあっても、まず伝わります。

 


またその悪口は、本人に伝わるだけでなく、

その人の子供や奥さん、親に伝わります。

それを聞かされた子供や親はどう思うだろうか、

そこまで考えて、悪口は慎まなければなりません。

 


最近は「サイコパス疑惑のある芸能人」と

サイトに紹介されたりしてますが、

そのサイトをその芸能人の友人も、子供も見るんですよ。

ほんの一面の言葉尻やエピソードで、

人にそんなレッテル貼っていいのか、と思います。

 


つまり言いたいのは、サイコパスという言葉が

多くの人に認知された結果、

全国各地でこういう会話が繰り広げられるようになり、

言われた方にとって、サイコパスという言葉が

いかにひどい侮辱なのか、分かって使っているんだろうか、

言われた人の気持ちを考えてみろ、と思ったのです。

 


仏教では『悪口(あっこう)』は、

口で作る四つの罪悪の一つに数えられ、

口にした本人は悪い報いを受けますよ、と説かれています。

自戒したいと思います。

 

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煩悩林の真っ只中で幸福になるには

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【煩悩林(1)】


仏教では「大衆」を『煩悩林(ぼんのうりん)』と言われます。

『煩悩林』とは、煩悩の林、

数々の煩悩が林立している、ということです。

煩悩とは、私たちを煩わせ、悩ませるもの。

ひとりの人間に108の煩悩があることから、

「百八の煩悩」といわれます。

そのいくつかを言うと、

・思い通りにならないとすぐ腹を立てる心、

・幸福な人をねたみ、不幸な人をクスクス笑う心、

・そんな自分なのに人からは尊敬されたい一杯の心、

そういう心が煩悩です。

 


10人のグループが集まると、そこには1080の煩悩がある。

100人のグループでは、10800の煩悩。

1000人では、108000の煩悩。

では東京ドーム5万5千人では?

・・・計算、大変ですネ。

何しろ「大衆」とは、ところ狭しと煩悩がウジャウジャと

密生している密林、ジャングルのようなものだ、ということで、

「煩悩林」と説かれているのです。

 


「煩悩林」の中で生きるのは大変です。

芥川龍之介は

「周囲は醜い。自己も醜い。

そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」

と書き遺しました。

 


仏教では煩悩林(大衆)の住まいするこの世のことを

『穢土(えど)』といいます。

「煩悩に穢れた世界」ということです。

この人間世界を、穢れた世界、とまでは思わない人は、

ちょうど公園の臭いトイレでも、長くいると鼻がバカになって、

「臭い」と感じなくなってしまうようなものだ

と仏教では言われます。

その点、芥川は鼻が敏感な人だったので、

とても穢土で生きていくのが、耐えられなかったのでしょう。

 


「穢土」に住まいし、傷つけ、傷つけられ苦しむ私たち大衆に、

真の幸福があることを教えられたのが、親鸞聖人でした。

『有漏の穢身は変わらねど こころは浄土に遊ぶなり』

“穢土に生きるままで、煩悩林の真っ只中で、

心は浄土へ往って遊んでいるように楽しく愉快だ”

と、絶対の幸福があることを明言されています。

 

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なぜ「生きることは耐えていくこと」になってしまうのか

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【娑婆(2)】

 


『娑婆』とは仏教の言葉で、意味は「堪忍土」。

「堪忍していかねば生きていけない世界」ということです。

あっちぶつかり、こっちぶつかり、

思うままに生きている人は誰もいません。

それは一党支配の独裁者も、超大国の大統領も同じです。

 


夏目漱石は『草枕』の冒頭に、娑婆世界の実態を書きました。

「智に働けば角が立つ。

 情に棹させば流される。

 意地を通せば窮屈だ。

 とかくに人の世は住みにくい」

「智に働けば角が立つ」

あいつは冷たい。人情味が薄い。杓子定規だ、理屈っぽい。ドライだ。

「情に棹させば流される」

優柔不断だ、頼りない、日和見主義だ、一貫性がない、

「意地を通せば窮屈だ」

意固地だ、頑固だ、融通が利かない、偏屈だ、

「とかくに人の世は住みにくい」

どんな生き方をしても、堪え忍ぶ世界です。

 


ではなぜこの世は、そんな住みにくく、生き辛い世界(娑婆)に

なってしまうのでしょうか

それは娑婆に住まいしている私たちが、煩悩の塊だからです。

 


自分さえよければいいと欲に動かされ、

思い通りにならないと腹を立て、

しかも慢心一杯だから、もう自分が悪いとは思えない、

そんな煩悩の固まりの人間が住まいしているのが、

「穢土」(煩悩に穢れた世界)ですから、すぐぶつかってしまい、

おのずと堪え忍ばなければやっていけない世界となるのです。

 


夏目漱石は、草枕の上記の文のあと、こう続けています。

「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。

どこへ越しても住みにくいと悟った時、

詩が生まれて、画ができる。

人の世をつくったものは神でもなければ鬼でもない。

やはり向こう三軒両隣りに、ちらちらするただの人である」

 


どの会社に勤めようが、どの人と結婚しようが、

どの国に住もうが、どの時代であっても、

そこにいるのは煩悩いっぱいの人間ですから、やはり「穢土」。

だから、常に堪え忍んでいかねばならない「娑婆」になるのです。

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