親鸞に学ぶ幸福論

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『歎異抄』の「弥陀の誓願不思議に助けられ」の意味を解説すると

 

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【生死の一大事(3)】

 


先回と先々回の2回で、

「生きる」とは「冥土の旅」であり「滝壺に向かう小舟」だと譬え

生死の一大事』の解決が仏教を聞くただ一つの目的である

とお話ししてまいりました。

 


よって仏の救いとは、この『生死の一大事』から救われることなのです。

有名な『歎異抄』の冒頭『弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて』の一節で、

親鸞聖人が「弥陀の誓願によって助けられた」と言われているのも、

ことさらに「何から助けられた」と言われていなくても、

当然、「生死の一大事から助けられた」ことに他なりません。

『弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて』とは、

「親鸞は弥陀の誓願によって生死の一大事から助けられた」

と告白されたお言葉なのです。

 


一般的に「救われた」「助かった」といっても、その体験もいろいろです。

砂漠でノドの渇きに苦しむ人が、水を与えられたら「ああ、救われた」と口にします。

どの医者からも見放された難病患者が、名医の手術で完治すれば「助かった」と言います。

冬山での遭難を救助隊に発見され、九死に一生を得たときも「助かった」と喜びます。

 


しかし、これらの場合「助かった」といっても「一時的な」救いです。

ノドはまた渇きますし、病気は再発もありえますし、

冬山から救助されても、また何かの災害や事故に遭うこともあります。

「その時は助かった」ということであって、

いつか何かのことで「今度ばかりは助からなかった」と、

死を迎えねばならないときがきます。

 


名医の手術も、冬山の救助隊も、

滝壺に進んでいく小舟のスピードを少しでも遅くする努力であり、

それでは本当の意味で「救われた」とはいえません。

私たちの「助かった」は、一時的な救いであり、

誤解を恐れず、辛辣な言い方をしてしまえば、

しばらく死ぬのが先に延びた、に過ぎません。

 


親鸞聖人の『弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて』の告白は

そんな一時的な救いではなく、根本的な救いです。

それは死の滝壺に向かう一大事から救われた大きな喜びと深い感謝なのです。

 


「必ず死ぬのに、なぜ少しでも長く生きようとするのか」

「間違いなく死ぬのに、なぜ生きねばならないのか」

この難問が「この幸せな身になるためだったのか」と氷解したときが

弥陀の誓願不思議に救い取られた時。

そして、その喜びと感謝が紙面一杯綴られているのが『歎異抄』です。

 

 

 

 

 

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生死の一大事の解決が仏教のただ一つの目的

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【生死の一大事(2)】 


まもなく6月も終わり、今年も早、半分が過ぎ去ろうとしています。

来年の今頃は新元号となり、その翌年は東京オリンピック、

こうしてどんどん進んでいく私たちの行く先は、

一体どうなっているのでしょう。

 


仏教では「生きる」とはちょうど滝壺に向かう激流を下る小舟に乗っているようなもの、と例えられます。

あたりを揺るがす圧倒的な滝の轟音。

引き込まれてしまえば、帰ることのできない奈落。

小舟の中の営みを一瞬でひっくり返す巨大な奔流。

そんな死の滝壺に、すべての人はいつか必ず小舟もろとも飲み込まれます。

これは民族も、思想も、頭の善し悪しも関係ない、万人の将来です。

地球上74億の小舟がみな滝壺へ、滝壺へと向かっているのです。

 


今日一日で滝壺に落ちる小舟が15万以上、

昨日も15万以上の小舟が滝壺に飲み込まれ、

今日もまた15万、落下しようとしています。

いつかその中に自分の順番も来る。

人間にとってこんな一大事は他にありませんから、

これを仏教では『生死の一大事』と言われます。

 


そんな舟の中だから、私たちは何を手に入れても、どんなことをしても、

心底からの満足はなく、いつも得体の知れない不安と虚しさを抱えているのです。

滝壺に向かう行く末にため息をつき、虚しさを紛らわせようと船中で騒いでいますが、

瀑布の轟音を耳にすると、とたんにうろたえる、

何万年前から、洋の東西を問わず、繰り返されてきた人間の実態は、

今もまったく変わりません。

 


この『生死の一大事』の解決一つを目的とするのが、

釈迦の教えであり、浄土真宗です。

 

 

 

 

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門松や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

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【生死の一大事(1)】


室町時代の禅僧一休は、アニメ「一休さん」で有名です。

快活で、賢くて、つぶらな瞳の「一休さん」。

あのイメージが強かったせいか、図鑑で一休の肖像画を初めて見たとき

「えっ、これが一休さん?」と驚いたのを覚えています。

頬がこけ、無精髭を生やし、どこかふて腐れたような、肝が据わった風貌には

アニメの「一休さん」のイメージはまったくありません。

 


仏教を聞くようになり、一休の書き遺した、反骨精神に満ちた、

毒舌と称してもいい歌や文章を知ってからは

アニメの一休さんの方が虚構で、

肖像画に描かれている姿が実像なんだろうなと、納得しました。

 


毒舌と悪口は違います。

悪口は単なる非難中傷ですが、

毒舌は辛辣であるものの、そこに一面の真理が光っているものです。

だから悪口は誰でも言えますが、

毒舌は本質を見抜く眼を持った人しか言えません。

今日は、一休の毒舌を含んだ一首の歌を紹介します。

 


「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(一休)

一休は、正月で賑わう京都の辻を、この歌を朗々と詠んで歩いたと言われます。

「こんなめでたい日に、なんて不吉な」

と当時の都の人々も眉をひそめたでしょうが、人生の本質を捉えた歌といえます。

 


年が明け、門松が玄関先に飾られる元旦を迎えると、

みんな「おめでとう」「おめでとう」と言います。

しかし一休は喝破します。

「何がめでたいんだ。元旦とは冥土の旅の一里塚ではないか」と。

 


「冥土の旅の一里塚」とは、どういうことでしょうか。

一里塚(いちりづか)は、街道を旅する人の目印に、

一里(約4キロメートル)毎に設置した土を盛った塚のことです。

塚の側には榎などの木が植えられたり、

江戸まであと何里、と書かれた標識を立てたりしていました。

今でいう高速道路に設置されている、東京まで何キロ、と書かれた緑の標識のようなものです。

旅人は一里塚を見ては「旅はまだまだ続くな」とか「もうすぐ終点だ」と

行く先に思いを馳せたのです。

 


一休はここで、元旦を旅の一里塚に例え、

その旅は「冥土への旅」だと言っているのです。

 


「冥土」とは、死んだ後の世界です。

生あるものは必ず死に帰す。

生きている人は皆死に向かっています。

一日生きたということは、紛れもなく、一日死に近づいたことに他なりません。

年が明けて一年経ったということは、

それだけ大きく自分が死ぬ歳に近づいたということです。

まさに元旦は「冥土の旅の一里塚」なのです。

 


私たちは、死ぬのは嫌だ、寂しい、怖い、と心の底で感じ、

頑なに死から目を背けようとしますが、

着実に毎日、毎年、墓場へ向かって行進しているその歩みを止めることができない存在です。

すべての人が、未だ知り得ぬ、死後の世界へ向かう旅人なのです。

 


そんな己の行く先を忘れ、元旦を迎えたからと

めでたい、めでたいとはしゃぐ人々に一休は

「何がめでたいんだ、元旦は死に向かって進む旅の一里塚ではないか、

こうしてどんどん進んでオレも死んでいくんだな、と確認させられる日が元旦だぞ、

めでたいはずがなかろう。めでたいのは、おまえの頭でないのか」

と皮肉ったのが、

「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

の歌なのです。


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生死の一大事についてもっと知りたい方はコチラ
生死の一大事

 

 

 

人類史が暴いたホモ・サピエンスの罪状とは

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【罪悪深重(1)】

 


情の欠片もない残酷な人を「獣(けだもの)!」と罵ったり、

「男は狼だから気をつけなさい」と言われたりしますが、

それは狼や獣に失礼というものです。

彼らは自分が食べる分しか狩りませんし、

自然の生態系を壊すような大量殺害はしません。

他の動物を絶滅させた前科があるのは「人間」だけです。

 


ニューヨークのブロンクス動物園では以前、

アフリカ・ゾーン大型類人猿舎の鉄柵の向こうに大きな鏡がはめ込まれ、

動物たちを見に訪れた当の人間の上半身が鉄柵越しに映るようになっており、

看板に「世界で最も危険な動物」と書かれてあったそうですが、

ホモ・サピエンス(人間)の過去の罪状を知れば、

そのレッテルは当然といわねばなりません。

 


『サピエンス全史』でハラリ氏は、人類が進歩していった道程に、

おびただしい動物たちの死骸が散らばっていることを暴露しました。

人類は約4万5000年前、初めてオーストラリアに到着しましたが、

彼らはそこにいた大型動物の90%をあっという間に絶滅させてしまいました。

およそ1万5000年前にアメリカを征服しましたが、

征服の過程でアメリカに存在していた大型動物のうち約75%を絶滅させました。

すでに1万年前に人類は、地球上に存在していた大型陸生動物の50%を絶滅させてしまっています。

 


一方この数千年で、世界中に多くの子孫を残し、広く繁栄した動物もあります。

それは家畜化された動物たちです。

今日では、地球上に存在する全ての大型動物のうち90%以上が家畜です。

(ここでいう"大型"とは、少なくとも数キログラム以上の体重を持つ動物のこと)。

種の繁栄を、頭数という基準で測るとすれば、

ニワトリと牛と豚は動物たちの中で最も成功した存在です。

 


しかし家畜化された動物たちを、成功と呼べるでしょうか。

牛やニワトリでも、複雑な感覚や感情を有しています。

子は親の愛情を欲し、親は子を愛しく思い、

子は遊びを通して生活の術を学び、親がその子を育てることに精魂を傾けている姿は人間と同じです。

そんな家畜を、生まれたと同時に狭いケージに閉じ込め、

ワクチン・薬物・ホルモン剤・農薬・自動餌やり機を用いて太らせ、

注射で人工的に受精させ、子が生まれればすぐ母親と引き離し、

効率的に繁殖させるのが、人間がしている「畜産」です。

 


結果として、生物種として牛や豚やニワトリなどの家畜は

世界で最も成功した動物となりましたが、

同時に、最も悲惨な動物となったのです。

 


動物の目に映る人間という種は、

民族浄化、大量殺人などで悪名高きヒトラーやポルポトのような独裁者であり、

鬼や悪魔であり、人間流に言えばまさに「獣(けだもの)!」と罵られてしかるべき存在です。

 


幸福の科学の人から、動物は魂のステージが低いが、この世で魂を磨けば、

より高い魂のステージ「人間」に生まれることができる、と聞いたことがありますが、

人間とは、そんな魂を磨いた存在ではないことは、

多くの動物を絶滅させてきた歴史が証明していますし、

過去を振り返らなくても、現代の畜産を見れば、それは明らかです。

 


旧約聖書にも創世記の一節に

「神は彼らを祝福し

『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』

『生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である』

と言った」とあります。

 


このような聖書や幸福の科学の生命観は、一言で言ってしまえば「人間の驕り」です。

人間を凌駕する強い動物、生命体と遭遇しなければ、その驕りは消えないのでしょう。

 


いずれにせよ、人間とはそんな徳のある高貴な存在ではありません。

親鸞聖人は『罪悪深重の衆生』

罪の重い、業の深い、恐ろしくも悲しい存在だと説かれています。

 

 

 

 

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火宅無常の世界に安らかな処はない

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【火宅無常の世界(2)】


約七百年前に書かれた『歎異抄』に『火宅無常の世界』という言葉があります。

屋根のひさしに火が燃え移れば、みるみるうちに家財道具共々、

家屋全体が火に包まれてしまうように、

私たちの生きているこの世は、思いもよらぬ事が突如として起き、

何十年と大事にしてきたものも一気に崩れ去ることがあります。

それを親鸞聖人は『火宅無常の世界』と言われたのです。

 


「いやいや、それは親鸞聖人当時の700年前のことだからでしょ。

あの頃は伝染病も多く、飢饉も相次ぎ、戦乱に明け暮れ、

人々の間で厭世的な気分が高まっていた。

それで不安の絶えない“火宅無常の世界”と言われたんだよ」

とことさらに時代背景を強調する人があります。

 


しかし決してこれは七百年前の時代だけではありません。

今日でも『火宅無常の世界』は少しも変わりません。

 


卒業旅行に海外に行く予定を立てていた女子大生がいた。

ところが飛行機事故がテレビで報じられると、

心配になった母親が「海外はやめときなさい。日本にしなさい」と言う。

 


そこで車で行ける国内旅行にしたものの、

対向車線からの暴走車との正面衝突で死亡、とのニュースにまたも母親が心配になり、

娘に「車はやめときなさい。新幹線にしなさい」と忠告する。

 


ところが事故がないからと安心していた新幹線で、通り魔殺人事件が起こる。

そんな危ないものに大事な娘を乗せられないとお母さん、

「遠くに行くのをやめて近所にしなさい」と言う。

 


ところが今度は都内の路上で女性が無理矢理車に乗せられ、

殺害される事件が報道された。

するとお母さん「外出せずに家の中にいなさい」。

 


ところが今度は震度6以上の大地震で、

タンスの下敷きで死亡というニュースが報じられる。

 


ここだけは大丈夫と安心できる処など、どこにもないようです。

『死の縁、無量なり』と仏教では説かれます。

死ぬ危険はどこにでも存在しているので、どんな死に方をするか、誰にも予想できません。

いつの時代でも、どこの場所でも、常に死の危険にさらされているこの世の実態を、

『火宅無常の世界』といわれているのです。

 

 

 

 

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災害大国日本に住まいする者

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【火宅無常の世界(1)】


歎異抄』に『火宅無常の世界』という親鸞聖人の言葉があります。

『火宅無常の世界』の『火宅』とは、火のついた家。

『無常』とは、常が無い、続かないということです。

この世にずっと変わらないものは何一つないことを仏教では『諸行無常』といいます。

 


諸行無常の世に住まいしている私たちは、

いつ何が起きるか分からぬ不安に常にさらされています。

家のひさしに火が燃え移ったら、

瞬く間に火が家屋全体を覆ってしまうかと気が気でなく、

その家の中で安穏とテレビを見たり、食事したりできる人はありません。

そんな『火宅無常の不安な世界』に私たちは住まいしているのです。

 


大阪で大きな地震がありました。

改めて日本が地震の国であることを思い知らされます。

地震はプレートのひずみで起きるので、

二つのプレートの交差する真上に位置する国は、

地震の起きる可能性が高い事を覚悟しなければならないと言われます。

その点、プレートの世界地図を見たらわかりますが、日本は最悪です。

なんと4つの大陸プレートが日本列島を交差しているのです。

 


よって国土面積が世界のわずか0.3%に過ぎないこの国で、

世界の大地震(マグネチュード6以上)の2割が発生するのです。

 


さらには日本列島は台風の通り道であり、豪雪もあり、

国土は山がちなので、河川の上流から下流までの長さがきわめて短く、

洪水、山崩れも頻発します。

 


予期せぬ大災害で命を奪われ、呆然とする人たちの姿を、

私たち日本人は何度見せつけられてきたことか、

まさに『火宅無常の世界』です。

 


この『火宅無常の世界』にあって、

永久に変わらぬ安らぎがあることを明示されているのが『歎異抄』なのです。

 

 

 

 

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家族を支えているようで、実は支えられている

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【自利利他(1)】


まだ30代の独身で、新宿に住んでいた頃のことです。

とある縁で新宿御苑に行きました。

ちょうど今くらいの初夏の陽気の中、公園内の広い緑の芝生には、

たくさんの家族連れが、思い思いにボール遊びしたり、ランチしたりしていました。

ここに足を踏み入れるのは大学の時以来だな、と思い返しながら、

殺伐とした新宿の街並みの一角の、思わぬほっこりスペースに

心浮き立つものを感じ、しばし散策しました。

 


こういった処は、社会人の独身男性にはおよそ縁がなく、

場違いに身を置いている居心地の悪さを若干感じながらも、

子供の笑い声とぽかぽか陽気に癒やされました。

 


自分と同年齢とおぼしきお父さんたちが子供と遊んでいる姿に

「たまの休日に家族サービスでこうして出かけるのも大変だな。よくやってるな」

と感心しましたが、彼らの笑顔を見ていると、子供を楽しませているようでいて、

案外、本人自身も心身ともにリフレッシュする機会になっているんだろうなとも感じました。

 


皆さんはどんな休日を過ごされていますか。

「まいったよ、家族サービスでせっかくの休日がまったく自分の自由にならない」

と、嘆く友人の声も耳にします。

しかしそうぼやきながらも、その顔はどこか朗らかです。

 


家族ができると、家や庭の掃除、家族旅行、親もとへの帰省など、

けっこう面倒です。

しかしよく考えてみれば、家族がいるからこそ、掃除も運動もするのだし、

なかなか会えない親にも会いに行くのだし、

実は家族に背中を押されて、自分自身の心身の健康が守られているともいえます。

 


もし家族がいなければ、どんな休日だったか。

昼までごろごろ、たばこの煙たい部屋でパソコンゲーム、

繁華街のパチンコ屋に行って、その帰りに酒飲んで・・・

となっていたかもしれません。

 


ポカポカ陽気の芝生で体を動かすというのは、

家族でもいないと、なかなかそんな機会もありません。

食事も、家族がいるからこそ栄養のバランスも考え、彩りも考えて料理しますが、

独りだと手の凝ったものを作ろうという意欲はわかず、

いい加減なものをぱぱっと済ませるか、外食で終わらせるか、で栄養が偏ります。

独身男性は、既婚男性と比べて10年平均寿命が短いというデータは、わかる気がします。

 


家族を喜ばせよう、家族の幸せを守ろうと努めているままが、

実は自らの心と体の健康を支え、

自らの幸せを育んでいることにつながっています。

自分が家族を支えているようにみえて、

実は家族に自分が支えられている、といえるのです。

 

 

 

 

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