親鸞に学ぶ幸福論

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さくらももこさんの死去で、一気に『ちびまる子ちゃん』が切なくなった

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【無常(1)】


さくらももこさんの訃報に感傷的な気分になりました。

さくらももこさんとは何の面識もなく、

どんなお顔なのか、今回初めて知った程度なのですが、

漫画「ちびまる子ちゃん」は、

著者であるさくらももこさんの子供時代の話しだとは知ってはいるので、

今回の訃報は「ちびまる子ちゃんが死んでしまった」ということなのだと、

胸に迫るものがありました。

これはおそらく私だけでなく、

日本中の多くの人が同じように、

しんみりした気持ちになったのではと思うのです。

 


「まる子」が「お姉ちゃん」と喧嘩する姿や

「お爺ちゃん」と遊ぶ姿がテレビに映るのも

「この子の将来は、53歳の時に乳がんで亡くなるということなんだな」

と思うと、何か切なさを感じてしまいます。

そしてその訃報を、まる子の家族やクラスメイトはどう聞くんだろう

と思うと、なんとも言えません。

 


これは映画「タイタニック」の時も感じたことです。

「タイタニック」で観る船内の豪華絢爛ぶり、二人の燃える恋愛も、

すべて冷たい海の底に沈むんだなと、

結末を知っているが故の、切なさ、哀感が漂っていました。

 


考えてみれば「ちびまる子ちゃん」や「タイタニック」だけでなく、

今勝った負けた、得した損した、と騒いでいる自分も周りも、

みんな死んでしまう人ばかり。

何をムキになっているのか、

「あわれというもおろかなり」と説かれる仏教の言葉が身に沁みます。

 


毎週日曜日の「ちびまる子ちゃん」は、

すったもんだの出来事の最後に、ナレーションの

「○○と思うまる子なのであった」

と締めくくることが多かったと思うのですが、

最後、53歳で終わりを迎えるにあたって、

まる子ちゃんはどう思ったんだろうな、とふと考えました。

その時の思いを、エッセイに書くことはもうできないのですが、

「○○と思うまる子なのであった」と、

何か思われたことでしょう。

 


あなただったらその時、何を思うでしょう。

何を暗いことを言い出すのかと眉をひそめる方もあるかも知れません。

しかし「死」という厳粛な事実を、厳粛に受け止めるのが仏教なのです。

『無常(死)を観ずるは、菩提心の一なり』

「死にゆく存在である我が身を見つめることは、

いたずらに暗く沈むことではなく、

今の生を日輪よりも明るくする第一歩だ」

と説かれています。

 

 

 

 

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経済的自由は真の幸福をもたらすか

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有無同然(1)】


マグロは泳ぎ続けなければ死んでしまうそうですが、

人間なら働かなければ生活できません。

働くのは嫌なことだし、

疲れがたまった朝などは「今日は休みたい」とため息も出ますが、

それでもやはり起きて仕事に行くのは、

働かないと収入の道を閉ざされ、生活できなくなるからです。

 


そんな多くの人があこがれるのは、「経済的自由」です。

成功し、莫大な富を築き、働かなくても死ぬまで、

好きなときに、好きなことをして生きられる「経済的自由」が欲しい。

そうなればどんなにか幸せだろう、と思い焦がれ、

みな躍起になって、その境地を追いかけています。

 


「経済的自由を20代で手に入れるための3つのポイント」

「経済的自由を手に入れた主婦が語る5つの手法」

「経済的自由を得たい人必見」

というタイトルがネット広告上に踊っているのを見ても、それはわかります。

 


しかし本当に経済的自由に、真の安心や満足があるのか、

ちょっと考えさせられる話があるので、

マンガにしてみました。

マンガで学ぶ仏教【幸福】

 

 

 

 

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僧侶の身でありながら肉を食べ、結婚された親鸞聖人の伝えられたかったこととは

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肉食妻帯(3)】


仏教が日本に伝来して長らくの間、

「殺生罪」を犯す輩として蔑視されてきたのが、

山で獣や鳥を狩る猟師や、海で漁をする漁師たちでした。

 


猟師・漁師は寺の坊主から

「殺生の限りを尽くしている悪人だから、仏の救いに遇えない」

と蔑まれ、冷ややかな視線を投げつけられ、

猟師・漁師もそんな僧の態度にひがみと苛立ちを募らせ

「どうせ殺生の限りを尽くしているオレたちなんかに、仏教は縁のない教えだ」

と仏教嫌いを自認する人が多かったのです。

 


その一方で猟師・漁師たちは心のどこかで、

動物を殺すことを「殺生罪」と説く釈迦の教えに、

自分でも見ないようにごまかしてきた己の罪深さを、

ずばり仏に言い当てられた気がした人も少なからずあったでしょう。

「獣や鳥も、俺たちと同じように、

親子・夫婦が支え合って一生懸命生きている。

死にたくないのも人間と一緒だ。

舟に上げられた魚がピチピチはねるのも、

首を抑えつけられた山鳥がばたばたもがくのも、

矢が刺さって走れなくなったウサギがなおも必死に逃げようとするのも、

死にたくないからだ。

その獣や鳥を刃物で止めを入れる時の、彼らの怯えた目。

断末魔の鳴き声。

動物の最後の時に見せる目や鳴き声がまぶたに浮かぶ。

もし殺されていく動物たちが人間の言葉をしゃべれたら

“嫌だ、死にたくない、助けてくれ”と懇願しているに違いない。

あれはそういう鳴き声だ。

“何で一方的にこんな目に遭わなければならないのか”

“何て人間は残酷なんだ”

と理不尽さに怒りと悔しさをぶつけるだろう、

彼らはそういう目をして死んでいく。

そんな動物たちの必死な思いをいつも無視して、

問答無用で手にかけて殺し続けているオレたちが、

仏の救いに漏れているというのなら、

それも当然かもしれない」

 


生きるためと言い訳しながら、

恐ろしい振舞を日々重ねる自己の姿に、

どこか後ろめたさを抱える猟師・漁師たちは

「どうせおれなんか救われるはずない」と

人生に自暴自棄で、投げやりでした。

 


そんな彼らにとって嫌で仕方ないものが、

頭を丸め、袈裟を着て、香を焚き、

清廉潔白の風体で、厳かに振る舞う僧侶の姿でした。

日々、その手を動物の血で濡らし、

魚獣の匂いが染みついた漁師・猟師とは全く違い、

功徳を積んでいる自分は浄土へ生まれられると

信じて疑わぬ澄ました態度が鼻につくのでした。

 


きらびやかな袈裟に身を包む坊主らの説く仏教は

「極楽浄土へ往けるのは戒律を守る者、寺に財物を寄進する者」

という教えであり、

それは彼ら猟師たちには

「お前たちなど、最初から切り捨てられている存在だ」と

あてつけられているとしか思えないものでした。

 


そんな中、「それは決して真実の仏法ではない」と宣言されたのが

親鸞聖人だったのです。

僧侶も、在家の人も、老いも若きも、

男も女も、善人も悪人も差別なく、

全ての人が救われるのが阿弥陀仏の本願であることを

親鸞聖人は徹底して説き明かされました。

 


阿弥陀仏の救済の相手は「すべての人」、

本当に助けてやりたい仏のお目当ては

「殺生せずしては生きられぬ、どうにもならぬ悪人」

であることを明らかにされたのです。

ここに万人救済の大道がひらかれました。

 


人からさげずまれ、仏の教えにも見捨てられていると

ひがみ、冷め切っていた猟師・漁師達の孤独な魂は

親鸞聖人のご説法に、どんなにこそ勇気づけられ、

励まされたことでしょう。

 


今日でも仏教の名のもとで、庶民とは隔絶された環境で、

肉も食べず結婚もせず、髪をそって

修行に励む生き方が仏道だと信じ

他人にも勧めている状態です。

それが本当の仏教なら、

家庭を持ち、様々なしがらみを背負い、

生きるために殺生もする一般庶民にとっては、

縁のない教えになってしまいます。

 


それでは一般大衆は、お前たちは仏に見捨てられた存在、と

突き放されたようなものです。

「どうせ私なんか」と卑屈になり、

「生きる意味もない」と投げやりになるしかなかったでしょう。

そこに親鸞聖人が現れられて、

苦しんでいる人こそ、放ってはおけないのが仏の慈悲ですよ、

そんな者こそ救われるのが本当の仏教なんだよ、

と真実の仏教、阿弥陀仏の本願を明らかにして下されたのです。

そして自身も結婚され、子供も育てられ、肉を食べ、

まさに大衆の中に飛び込んで、

われわれ庶民と同じ目線で仏法を説かれたのでした。

 


3回にわたって、親鸞聖人の肉食妻帯の断行の理由について

お話してまいりました。

聖人の肉食妻帯は

「すべての人がありのままの姿で救われるのが、

真実の仏法であることを分かって欲しい。

少しでも、そのご縁になるのなら」

のお気持からの決行だったことを知ってもらえばと思い、

回数を重ねました。

 

 

 

 

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親鸞聖人の肉食妻帯が当時いかに非常識だったか

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【肉食妻帯(2)】

 

親鸞聖人御在世の当時、

「賀茂川の水と賽の目と山法師は、意のままにならぬ」と、

時の最高権力者も嘆いたほどの大勢力を誇ったのが、

比叡山や興福寺などの聖道自力の仏教でした。

 


聖道自力の仏教とは、

煩悩と戦い、自分の力で悟りを得ようとする教えです。

比叡山を本山とする天台宗、高野山を本山とする真言宗、

興福寺を本山とする法相宗などがよく知られています。

 


これら聖道自力の仏教の寺院は、長らく女人禁制の地とされ、

固く女性の出入りを禁じていました。

僧侶の生活する場に女性が立ち入ることさえ禁じられていたのですから、

ましてや結婚など論外でした。

 


このような当時の時代背景がわからないと、

親鸞聖人の肉食妻帯の断行が、

なぜ聖道自力の仏教の者達の逆鱗に触れたのか、

よくわかられないかもしれません。

 


今日の天台宗や真言宗の僧侶はみな肉食妻帯していますし、

比叡山の根本中堂も男女の差別なく観光できますから、

今日の感覚では、親鸞聖人の肉食妻帯を非難する者の方が

おかしいように感じられるかも知れませんが、

当時は僧侶の肉食妻帯は、大変な非常識だったのです。

 


先述の通り、比叡山や興福寺は絶大な武力、権力、財力を有しています。

それら一大勢力が、「肉食妻帯の破戒僧だ」と一斉に親鸞聖人を目の敵にしたのですから、

公家や貴族、一般大衆をも巻き込んでの大変な騒ぎとなりました。

 


比較にもなりませんが、大相撲でも土俵上は女性禁止(女人禁制)という伝統があり、

最近でも大相撲巡業中に、くも膜下出血で倒れた人を救助するために土俵上に上がった女性に、

『女性の方は土俵から降りてください』と相撲協会が再三にわたってアナウンスしたことで

世間のひんしゅくを買いましたね。

男女同権の今日でさえ、伝統としきたりに固執する人の反応はかくのごとし。

まして親鸞聖人の当時、公然と肉食妻帯することがどれほど大問題だったか、

大相撲の一件でも、改めて聖人のご苦労がしのばれます。

 

親鸞聖人はなぜ公然と肉食妻帯されたのか、その驚くべき理由とは

 

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【肉食妻帯(1)】


今日「親鸞聖人とはどんな方ですか」と尋ねれば

肉食妻帯した最初のお坊さんでしょ」との答えが多く返ってくるように、

親鸞聖人の肉食妻帯(にくじきさいたい)はよく知られています。

 


「肉食妻帯」とは、肉を食べ、妻を持つことです。

親鸞聖人が公然と肉食妻帯を断行されるや、

僧侶が肉を食べる?妻を持つ?そんな馬鹿な」と、

仏教界のみならず、世間中からも大問題となり、

四方八方から非難中傷の嵐が巻き起こりました。

 


現代人の価値観からすれば

「僧侶が肉を食べ結婚しても、何がそんなに問題なんだ?どこの寺の坊主も結婚しとるぞ」

と思われるでしょうが、それは今日の日本だから言えることです。

当時は僧侶といえば、肉を食べず、女性に接しないという戒律を守っている人とみな思っており、

公然と結婚することなど、考えられないことでした。

 


この戒律を公然と破り、肉食妻帯に踏み切られたのが親鸞聖人でした。

当然それは非難中傷の嵐を引き起こし、

「破戒坊主」「堕落坊主」「色坊主」「仏教を破壊する悪魔」「仏敵」と、

聞くに堪えない悪口雑言が親鸞聖人に浴びせられました。

 


その時代、僧侶が公然と結婚すれば、

どれほどひどい嘲笑、罵倒、非難が巻き起こるか、

20年間も天台宗の総本山、比叡の山で過ごされた親鸞聖人のこと、

他の人以上に重々分っておられることでした。

すべて覚悟の上での決行だったのです。

 


今日では親鸞聖人の妻帯の理由を

「結婚したくて仕方なかったから」とか、

「自分の欲望を正直に実行されたのだ」などと論じる人もあれば、

当時と同様「戒律が辛くて、修行を投げ出したのだ」と非難する者もあります。

 


しかしそれらの理由は、親鸞聖人にはあたりません。

もし聖人が結婚したくて戒律を破られたというのなら、

公然と結婚される必要はなく、秘密裏にされたらよかったのです。

聖人以前の僧侶や同時代の僧侶にも、密かに隠し妻をもっていた者は珍しくなく、

「かくすは上人、せぬは仏」という言葉が流行していました。

こそこそと隠れて妻を持っているのが「上人」

正真正銘していないのが「仏」と揶揄される有様だったのです。

酒のことを「般若湯」、女性のことを「花」という隠語で読んでいた事実もあるように、

こそこそと肉食妻帯する僧がいるのは、暗黙の事実でした。

 


もし親鸞聖人が結婚したくて仕方なかったのならば、

右にならえで、秘密裏のうちに妻帯されてもよかったはずです。

しかし親鸞聖人はそうされなかった。

公然と結婚されたのです。

親鸞聖人が隠れ妻を持っていた僧侶と決定的に違うのは実にここにあります。

親鸞聖人は「公然と」妻帯なされているのです。

 


八方総攻撃を覚悟され、

公の場で結婚を宣言されたのは、

何かそこに世の中に示す確固たる意図が、親鸞聖人にはあったからに違いありません。

 


明治の文豪、夏目漱石は、肉食妻帯で世の非難を一身に受けられた親鸞聖人の言動に、こう驚いています。

「親鸞聖人に初めから非常な思想が有り、非常な力が有り、

非常な強い根底の有る思想を持たなければ、あれ程の大改革は出来ない」

 


では漱石の感嘆した親鸞聖人の、「非常な強い根底の有る思想」とは、いったい何だったのでしょうか。

なぜ、激しい非難を覚悟してまで、公然と結婚されたのでしょうか。

次回から明らかにいたします。

 

 

 

 

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「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と仏縁

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【諸行無常(1)】


仏教に『諸行無常』という言葉があります。

『諸行』とは「すべてのもの」。

『無常』とは「常が無い」「続かない」こと。

すべてのものは移ろい変わる、

これだけは変わらないというものは世の中にない、

という真理を、仏教では漢字4字で『諸行無常』というのです。

 


このお盆の時期、帰省された方もあったと思いますが、

久しぶりに故郷の田舎に帰ると、

多くの人が『諸行無常』を実感させられるようです。

子供のころ心浮き立ったにぎやかな商店街は、シャッター街になった。

近所もどこもかしこも空き家だらけ。

旧友も変わってしまった。

久しぶりに老いた親と話すと、もしや認知症かと異変に気付く。

 


変わったのは周りだけではありません。

通った高校のそばを通ったり、通学する学生の姿を見て、

自分自身も歳を重ねたことを自覚させられます。

二度と戻れない過去に胸しめつけられるようなさびしさが襲い、

無常の世に生きていることを痛感させられます。

 


長く家族を養いつつ、仕事にいそしみ、

骨身をけずった果てにむかえた老いの坂。

残された日々、ただ朽ちてゆくばかりなのか。

人生の選択肢などもうほとんど残されてもいない。

これから先、何のために生きるのか。

まだ、し残したことがあるのだろうか。

 


駆け足で過ぎていく日々の喧噪を離れ、

多くの日本人が漠然とした焦燥感、虚しさに駆られるのが、

お盆であり、故郷だとしたら、

これも尊い仏縁につながる日本人の習慣と言えるかも知れません。

 

 

 

 

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「信心が足りない」とか「信心深い」とか使われる「信心」の実態とは

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【正信偈(1)】

 


「お前の力を信じてる」

「あなたのことをいつも信じているからね」

などと使われる「信じる」という言葉、

一般的に疑いがないときに使われる言葉とされています。

 


しかしよく考えると、疑う余地のまったくないことなら

そもそも信ずることは不要になります。

「夫は男だと信じている」と口にする妻はいないでしょう。

疑いようがないからです。

 


ひどい火傷をした人は「火は熱いものだと信じている」とは言いません。

熱かった体験をしたからです。

 


疑いようのない明らかなことは「知っている」とは言いますが、

「信じている」とは言いません。

「信じる」のは、「疑いの心」があるときです。

 


難関の受験生は、試験は水もの、発表までハッキリしませんから、

「合格を信じている」と言います。

「合格を知っている」とは言いません。

“ひょっとしたら失敗するかも”の、疑心があるからでしょう。

 


世間でいう信心も同様です。

ハッキリしない疑いの心を抑えつけ、信じ込もうとする信心です。

「私は神を信じます」というのも

「私は神を疑わないよう、努めてます」

「神の救いを疑う心を押さえつけて、力んでます」

ということになります。

 


親鸞聖人が仏の救いを

「真知(真に知んぬ)」「誠知(誠に知んぬ)」と宣言され、

蓮如上人が「今こそ明らかに知られたり」と喜ばれているのは、

はっきり今、本当の幸せになった、という大自覚があったからです。

 


例えれば、乗っている飛行機が乱気流で激しく揺れれば、

「もし墜落したらどうしよう」と不安な気持ちになります。

しばしば「大丈夫です。ご安心下さい」と機長のアナウンスが流れると、

機長の言葉に元気付けられるものの、

あまりに揺れる機体に、やはりおきてくる不安や疑心は

どうしようもありません。

 


それが安全無事に着陸できたら、どうでしょう。

「あー、助かった」と心から安堵し、

「墜落するのではなかろうか」「機長の言葉は本当だろうか」

との疑心はきれいになくなるようなものです。

 


疑いのなくなった信心を『正信心』といい

その明らかな世界を偈(うた)にされたのが

よく葬式や法事で読まれる『正信偈』なのです。

親鸞聖人が「誠なる哉や」と感嘆された心の世界はいかなるものだったのか、

以下のブログから『正信偈』の意味をよくよくお聞きください。

正信偈の意味とは

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