親鸞に学ぶ幸福論

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愛欲の広海に沈没すと告白された親鸞聖人

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【愛欲(1)】


どんな人であっても「叩けばほこりが出る」のが人間です。

一人の人物の、今までの人生でしてしまった卑劣な言動、

自分勝手な言動、失言、暴言などだけを寄せ集め、

一冊の本にしたらどうでしょう。

なんと性格の悪い奴か、友達には絶対したくないな、

と読む人が顔をしかめるような人物が

そこに現れるのでないかと思います。

ところがその同じ人物の、今までの人生における親切な言動、

勇気ある言動、美談、素敵な発言などだけを集大成し、

全て集めて一冊の本にしたら、これまた、

こんな素晴らしい人がいるのか、ぜひ会ってみたい、

という人物像になるのではないかと思います。


この人だけは、叩いても一切埃が出ません、という人は考えられるでしょうか。

人間は誰でも長所と短所があります。

あの人のこういうところは見習いたいな、

と思うところはどんな人にでもあります。

しかしあの人のこういうところは何とかならないかな、

と思うこともまたあるのです。

あの人は100%長所、欠点は一つもない、という人もありませんし、

あの人は短所と欠点を固めたような人だ、何一つ長所はない、という人もないものです。

 

評価する人によって、その人物の長所と短所、どちらかが強調されてしまうだけです。

その人物のことを好きな人が見れば、

長所ばかりが目に入り、短所は見えなくなります。

その人物のことが嫌いな人が見れば、

欠点とか短所ばかりが目につき、

「長所?あいつにそんなの、あるかい」となってしまいます。


そういった好き嫌いの感情を離れて、

客観的に人を評価することはなかなか出来ません。

(なかなか、というか、もう絶対にできない、と言い切ってもいいでしょう)

 

あの人の話を聞いていると、彼には何一つ長所がないではないか、

という人物評価もありますが、

それもその人の「あの人嫌い」というフィルターがかかっている上での評価です。

もちろん評価した人も嘘を言ってるわけではない、

そういう短所や欠点がその人にはあるのでしょうが、

その短所も、時に長所として発揮されることもあるものです。

往々にして短所は長所、長所は短所であり、

それが「個性」というものです。

ただその個性が、評価している人の目には

短所にしか映らず、長所には映らないだけのことです。

 

親鸞聖人は『 教行信証』に

「愛欲の広海に沈没している親鸞だ」と告白されています。

愛欲」とは、わかりやすく言えば「好き嫌い」のこと。

好き嫌いの心が常に離れきれず、

好きな人を、いい人間、正しい人と評価し、

嫌いな人を悪い人間、間違った人と評価する、

浅ましい自分勝手な自己を恥じられ、

「愛欲の広海に沈没している愚かな親鸞」

と懺悔されたのです。

 

 

 

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心の持ちようで幸福になれると仏教は説いているか

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【無常(1)】

 

仏教に説かれる「絶対の幸福」をお話しすると、

「絶対の幸福って、心の持ちようですか?」

と時々訊かれます。

 

確かに絶対の幸福は心の幸福ですが、

いわゆる多くの人がイメージし、言葉としても用いている

「心の持ちよう」で得られる幸福とは、全く違います。

 

だいたい「心の持ちよう」ほど、あてにならないものはないのです。

諸行無常』“一切は変わる”と説かれる仏教ですが、

中でもとりわけ変わりやすいのは「心」だと教えられています。

盆の上の玉子のように、

ころころ変わり続けるから「こころ」。

心ほど変わりやすいものはない。

ということは「心の持ちよう」ほど、

あてにならないものはない、ということです。

 

「心の持ちようで幸、不幸が決まる」と主張する人の用いる例えで

よく知られるのは、「コップ半分の水」の話です。

コップに半分の水が入っている事実を見て、

「もう半分しかない」と嘆く人もいれば、

「まだ半分もある」と喜ぶ人もいる、という話ですね。

事実は一つでも、心の持ちようによって、

人間の幸福はどのようにでも変わるのですよ、

と主張する際に用いられる例えです。

「幸せはいつも自分の心が決める」というフレーズも、

この思想から出てきます。

 

心の持ちようを礼賛する人は

「“幸せになりたい”と思ったり、言ったりするのがよくないのだ」

ともいいます。

「まだコップに水が足りないから、もっと水が欲しいという不満であり、

その、現状を不幸だと思っているマインドこそが、

今あなたを不幸にさせているのだ、と。

逆に「今、自分は幸せだなあ」と感謝するのは、

コップに半分の水があることを喜び、幸せを感じているのだから、

その人は幸せなのだ、との説です。

 

その主張はそれはそれで正しいともいえます。

「もう半分しかない」と不安におびえたり、

「なんで自分は半分しかないのか」と不満になるよりも、

今を感謝して「まだ半分もある」「こんなに自分は恵まれている」と思った方が、

明るく楽しく生きられることはよくわかります。

 

しかしここで問題になるのは

その「心の持ちよう」が簡単ではない、ということです。

幸せは心の持ちようだよ、と誰かから聞かされ、

まだコップに半分もあることを感謝しようとしていても、

誰かから「半分じゃ何かあったら不安だよ、もう少し水が入っていないと」と忠告されると、

やっぱり大丈夫だろうか、とまた心が憂鬱になってくる。

誰かの些細な一言でも、心がコロコロ変わっていきます。

 

また周りを見ると、みんな自分よりコップに水が多く入っている。

すると「なんで私だけがこんな目に」と、感謝しようにも、

劣等感や焦燥感が先に立ってしまいます。

逆に周りの人がみんな、コップに水がほとんど入っていなかったら、

「自分は半分もあって幸せだな」と感謝できます。

つまりどうしても周りと比較してしまうのです。

 

また今までの人生で、コップにいっぱい水が入っていた人なら、

コップ半分に減ってしまったら、

「半分しかない」と、どうしても思ってしまうのではないでしょうか。

ずっとコップに水が一杯だったのが当たり前で生きてきた人は、

コップ半分の水に感謝しよう、と促されても、

なかなか心が切り替えられません。

逆に、今までコップに水がほとんど入っていない辛い中、生きてきた人なら、

コップ半分の水に心から感謝できるでしょう。

 

このように私たちはどうしても周りの人や自分の過去にとらわれ、

比較して幸、不幸を感じてしまう存在なのです。

比較する幸福を「相対の幸福」といいますが、

私たちは相対の幸福しか知りません。

絶対の幸福はわかりません。

 

「過去に固執しているからそうなるんだ」

「人は人、周りの人にとらわれるな」

と言われそうですが、そんな人に逆に訊きたいのですが、

じゃあ誰が過去にとらわれず、今を生きることができる人があるでしょうか。

そんな聖人君子がいたら、お目にかかりたいものです。

 

心の持ちようだから、と頭ではわかっても、

実際は借金で頭悩ませたり、

人間関係でクヨクヨする日々を送っているのが、

私たちの現実です。

素直に手を当てて自分の心を見つめれば、

過去や周りに固執してしまう、そんな自分しかありません。

これを親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫 」(煩悩の固まりの人間)といわれています。

 

そんな周りや過去に固執し、一喜一憂する私たちが、

その固執する心そのままで大安心、大満足する境地が「絶対の幸福」です。

 

 

 

 

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あなたにとってかけがえのない人は、こんな人です

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【縁(1)】


「なんでもいい、おれの悪いところをズバズバ言ってくれ」

と同僚が言うので、

「それなら」と感じたことをありのまま言っていると、

次第に不機嫌になり、黙って行ってしまった、

という話を聞いたことがあります。

 

私たちは欠点を言われると腹を立てます。

たとえ正論であったとしても、おもしろくない。

言った人をもう好きになれないものです。

 

だから「これはあの人は直したほうがいいな」と注意したいことがあっても、

これを言うと、腹を立て、自分を嫌いになるだろうなとわかるから、

どうしても言うのを躊躇してしまいます。

「誰か代わりに言って」という気持ちになってしまいます。

たとえ相手が自分の妻や子供であっても、

言いにくいことは変わりがありません。

嫌われたくないから、注意はしにくいのです。

 

したがって、自分の欠点を注意してくれる人はどこにもおらず、

たいていは陰でコソコソ言われ、笑われてるだけです。

 

そんな中、あなたにしっかり向き合い、

欠点を指摘してくれる人がもしあるとすれば

その人はあなたにとってかけがえのない存在です。

自分には気づけないことを教えてくれているのですから。

嫌われてもいい、ここを直してほしい、と

言いにくいことを言ってくれているのですから。

そんな人はお金を出したって、なかなか会えません。

真に感謝すべき人といえます。

 

 

 

 

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ジョブスの言う「一夜にして起きた成功の裏にあるもの」とは

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【因果の道理(1)】


とある日本の衣料メーカーは、中国に進出したものの、

数年間赤字続きで苦戦を強いられていました。

それがあるワンピースの襟のデザインをちょっと変えたところ、

そのワンピースが爆発的な売り上げを記録し、

中国の若者によく知られるメーカーになりました。



こう聞くと、

「ちょっと襟のデザインを変えたくらいで

こんなに儲かるなんて運がよかったね」

と思いがちですが、現地の若者の意見を積極的に取り入れ、

デザイン制作の方針を切り替えた、大胆な会社の方針が功を奏したものでした。

その大ヒット商品の背景を探れば、

長年に渡ってその会社に培われてきた様々な蓄積が見えてきます。



芸人ならば年末の深夜番組で披露した一発芸のネタが

年明けからSNSやユーチューブで拡散し、

その年、分刻みのスケジュールでテレビ局を移動する

売れっ子芸人になることがあります。

こんなのも「あいつ、うまく時代の波に乗りやがって、運がいいな」

と周りはぼやくものですが、

これとて、人知れぬ研鑚の賜物に違いありません。



故スティーブジョブスは

「よく見ると、一夜にして起こった成功の多くには、

長い時間が費やされているものだ」

と言いました。

ジョブスの言う「よく見ると」ができる人は

そんなに多くないようです。



仏教では、なぜその人が成功したのか、

その原因を明らかに見ることを「諦観」といいます。

その人に表れた結果だけを見て

「いいなあ、あの人ばかり」

「ラッキーだったよな、何であいつばかりが」

とねたむ人は、その人の成功の原因を究明することなく、

目先のことしか見えていない人であり、

「諦観」のできていない人、といえます。



これは「運の悪い人」にも同じことがいえます。

その運の悪さは「たまたま」でも「偶然」でもなく

もちろん「たたり」でも「霊障」でもない、

その人の日常の習慣、言動、

さらに言えば、いつもの思考のクセなど、

よく見るとその人自身に、長い時間が費やされている原因があるのです。

 

 

 

 

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リーダーは誰にでも務まるものではない

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有無同然(1)】

 


先日のW杯では、

「何事も“決定する”とは難しいものだな」

と、考えさせられました。

何か決定すると、そこに必ず批判する者が出てきます。

重大な決定であればあるほど、批判は大きくなります。

「なぜ今の時期ハリルを代えた?」

「おっさんジャパンでないか。本田を外して若手を使え!」

「キーパーの川島を代えろ!」

「なぜ最後の10分、攻めなかった?」

いずれも力説する本人は、自分の主張が正しいと信じており、

なぜかと問われれば、熱く語れる根拠もある。

そして何より彼らの主張は「勝ちたい」と思っているからこその切実な訴えなのです。

 


しかしだからといって、それらの訴えに、

いちいち頷いていたら監督は務まらない。

意見として耳を傾けるのは大事ですが、

結局、最後は自分がただ一つの道を決めなければなりません。

その決断は、多くの人の切実な訴えを切り捨てることになり、

場合によっては恨みを買うでしょう。

あんな奴が監督でいいのか、とごうごうたる批判も覚悟しなければなりません。

それでも監督となれば、決めなければならないときがあります。

 


特に大勢の意見が「東に行け」という時に、

ただ一人「西に行く」と決断するのは、並大抵ではありません。

断固たる勇気が要ります。

 


サッカーを例に出しましたが、サッカーならまだいい。

負けても人が死ぬわけではないし、国が滅びるわけではない。

しかしこれが一国の大統領、首相ともなれば、サッカーとは重さが違います。

リーダーの舵取りに一国の浮沈がかかっているのですから。

 


上記のケネディの写真は有名です。

米ソの核戦争が勃発するかと世界中が固唾をのんだキューバ危機の最中、

アメリカの飛行機がキューバで撃墜された、との一報を聞いた時の

ケネディの様子を映した一枚です。

まさにこの一報は、世界が核戦争に最も接近した瞬間でした。

一枚の写真から「リーダーの苦悩」がありありと伝わってくるようです。

 


大統領の周りではさまざまなブレーンが軍事や経済の分析をしますが、

最終的に決断するのは大統領です。

全責任が自分の両肩にのしかかるプレッシャーは、いかほどでしょうか。

「楽は下にあり」

重い責任に押しつぶされない強靱な精神力がなければ、

とても一国のリーダーなど務まるものではないな、と痛感する一枚です。

 


W杯後に西野監督が日本代表の監督を辞任したのも分かる気がします。

とにかく休みたかったのではないでしょうか。

あの2ヶ月間の精神的疲労は、余人の想像のできないものがあったでしょうから。

 


上に立つ人ほど、大変です。

責任も重いので、悩みも大きい。

誰にでも務まるものではないことは明らかです。

 

 

 

 

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夏の終わりに無常をおもう

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【無常(2)】


釈迦は、人生は旅に譬え、人間を旅人に譬えられています。

旅人と村人とは違います。

村人はその村で生を受け、その村で育ち、

その村で土地を耕し、生計を立て、
 
その村で所帯を持ち、その村で子供を育て、

その村で死ぬ。
 
村にずっと居続けるのが村人です。

 


旅人はそうではありません。

一カ所にとどまってはおれないのが旅人です。

「ここにずっと留まっていたい」と思っても、旅を続ける以上、

そこを離れ、次の場所に向かわねばなりません。

 


私達の人生もまた然り。

昨日の旅が終われば今日の旅、

今日の旅が終われば明日の旅と、

一カ所に留まることが許されない旅人です。

平成30年8月31日という日は二度と戻ってはきません。

 


今年の旅も、残り3分の1となりました。

未曾有の酷暑、いつまで続くと言っていても、

なんてこともない、運転中の視界に広がる富山の風景には

稲刈り後の田んぼがあちこちに見られ、

なんだ、ちゃんと秋が来てるでないか、と実感します。

あと一週間もすれば、稲刈りが全部終わるのではないでしょうか。

そうなれば青々としていた風景は、

寂しい黄土色に変わり、いつもの富山の秋、冬の風景です。

季節の巡りは堅実ですね。

 


平成最後の夏は終わり、秋が来て、また冬が来る。

来年は新しい元号、その後、東京オリンピック。

どれもこれも、瞬く間に過ぎ去っていくことでしょう。

 


しかも人生は、やり直しのきかない一方通行の旅です。

リセットボタンはありません。

そこがゲームとは違います。
 
たった一度しかない、かけがえのない日々を、

取り消すことのできない選択を繰り返して

私達は生きているのです。

 

 

 

 

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さくらももこさんの死去で、一気に『ちびまる子ちゃん』が切なくなった

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【無常(1)】


さくらももこさんの訃報に感傷的な気分になりました。

さくらももこさんとは何の面識もなく、

どんなお顔なのか、今回初めて知った程度なのですが、

漫画「ちびまる子ちゃん」は、

著者であるさくらももこさんの子供時代の話しだとは知ってはいるので、

今回の訃報は「ちびまる子ちゃんが死んでしまった」ということなのだと、

胸に迫るものがありました。

これはおそらく私だけでなく、

日本中の多くの人が同じように、

しんみりした気持ちになったのではと思うのです。

 


「まる子」が「お姉ちゃん」と喧嘩する姿や

「お爺ちゃん」と遊ぶ姿がテレビに映るのも

「この子の将来は、53歳の時に乳がんで亡くなるということなんだな」

と思うと、何か切なさを感じてしまいます。

そしてその訃報を、まる子の家族やクラスメイトはどう聞くんだろう

と思うと、なんとも言えません。

 


これは映画「タイタニック」の時も感じたことです。

「タイタニック」で観る船内の豪華絢爛ぶり、二人の燃える恋愛も、

すべて冷たい海の底に沈むんだなと、

結末を知っているが故の、切なさ、哀感が漂っていました。

 


考えてみれば「ちびまる子ちゃん」や「タイタニック」だけでなく、

今勝った負けた、得した損した、と騒いでいる自分も周りも、

みんな死んでしまう人ばかり。

何をムキになっているのか、

「あわれというもおろかなり」と説かれる仏教の言葉が身に沁みます。

 


毎週日曜日の「ちびまる子ちゃん」は、

すったもんだの出来事の最後に、ナレーションの

「○○と思うまる子なのであった」

と締めくくることが多かったと思うのですが、

最後、53歳で終わりを迎えるにあたって、

まる子ちゃんはどう思ったんだろうな、とふと考えました。

その時の思いを、エッセイに書くことはもうできないのですが、

「○○と思うまる子なのであった」と、

何か思われたことでしょう。

 


あなただったらその時、何を思うでしょう。

何を暗いことを言い出すのかと眉をひそめる方もあるかも知れません。

しかし「死」という厳粛な事実を、厳粛に受け止めるのが仏教なのです。

『無常(死)を観ずるは、菩提心の一なり』

「死にゆく存在である我が身を見つめることは、

いたずらに暗く沈むことではなく、

今の生を日輪よりも明るくする第一歩だ」

と説かれています。

 

 

 

 

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