【人生の目的(3)】
前回と前々回のメルマガで、
人間が生きるには希望が必要であり、
その明かりを失うと生きていけない存在でもあることを、
種々の例を引いてお話ししてまいりました。
さてそのことを踏まえた上で、ここで考えていただきたいことがあります。
それはこういった「生きる明かり」「生きる希望」「生きがい」は、
「人生の目的」(人間に生まれてきた目的)と言っていいのかどうか、ということです。
江戸時代の農民は正月や村祭りの「ハレ」の日を明かりに「ケ」の地道な日常を過ごしましたが、
彼らがそうしてがんばって生きていった目的はどこにあったのでしょう。
私たちはGWの10連休の旅行や夏休みのコンサートを楽しみに目の前の仕事を乗り切りますが、
そのように働いて収入を得て生活しているのは、そもそも何のためなのでしょう。
晩酌しながら「これが楽しみで生きているようなものですわ」と言う人は、
晩酌を生きる力にしているのですが、そうしたもので力を得て生き続けるのはなぜなのでしょうか。
マラソンランナーが完走するための給水場のドリンクを必要とするように、
人間は生きる明かり、希望を必要としており、それなくしては生きていけません。
ではマラソンランナーなら42.195キロを少しでも早くゴールすることを目的としていますが、
人間は何を目的に生きているのでしょうか。
明かりや希望を力として生き続けている目的は何なのでしょうか。
そもそもなぜ生きるのでしょうか。
世に出回るほとんどの人生論では、
「人生の目的」と「生きがい」「生きる目標」をごっちゃにしています。
しかし仏教では「人生の目的」と「生きがい」「生きる目標」はまったく違うと説きます。
「生きがい」「生きる目標」「生きる明かり」は生きるために必要なものであり、
「人生の目的」は、なぜ生きるのか、やがて死ぬのになぜ生き続けるのか、という問いです。
明白に違います。
この違いを鮮明にし、真の人生の目的とは何か、を明らかにされた方が親鸞聖人という方でした。
その「人生の目的」とは何なのか、知られたい方のために書いた今の自分の精一杯の内容が以下の20回です。
https://shinran-mail.com/freemail/