【法鏡(3)】
仏教は自己を知る鏡だとお釈迦さまが説かれていることを前回、前々回でお話ししました。
こう話をすると「自分のことぐらい自分が一番よく知ってるよ、別に人に聞く必要なんかない」と思われる方もあるでしょう。
確かに自分が何をやっているか、人は知らなくても、自分はよく知っています。
他人は自分の一部しか知りません。
24時間自分が何をしているか、知っているのは自分だけです。
大衆の前でマイクを使って話すこと、会議などで発言することなら多くの人もわかりますが、
ヒソヒソ話、ここだけの話はその言葉を聞いているわずかの人しか知りません。
まして心の中で何を思っているかとなると、誰もわかりません。
自分しかわからないことです。
ならば自分のことは自分が一番よく知っているに間違いないと思いますが、
仏教では、どれだけ深く反省し、己を真面目に見つめても、
私たちは本当の自分を知ることはできない、と説かれています。
どうしても私たちは誰かと比較して、
この人のようにはできないけれどもあの人よりもマシだ、
と比較する見方しかできません。
例えば刑務所は悪いことをした人が集まる場所ですが、
覚せい剤使用で服役している人に
「何でそんな悪いことをしたんだ」と言うと、
「いいことをしたとは思わんけれども、別に人に迷惑かけたり、傷つけたりしたわけではない。あいつは振り込み詐欺で高齢者を騙してなけなしの貯金を奪ったそうだ。そういうことはおれにはできない」と口にします。
では振り込み詐欺で服役している人に
「なんでそんな悪いことをしたんだ」と聞くと、
「いいことしたとは思わんが人を殺すことまではしていない。たくさん持っている者から取って社会にお金を還元したんだ」と言ってくる。
では殺人犯に「何でそんな悪いことをしたんだ」と聞くと、
「人を殺したのは良くなかったが、誰だってあいつが俺にしたことを聞けば殺意をいだくと思う。でもあそこにいる奴は誰でもよかったと言って殺したそうだ、ああいう人間の気が知れん」と答えるという。
どこまで行ってもなかなか自分のことを本当に悪い人間だとは認められないようです。
自分の良心に照らし、真面目に見つめようとどれだけ努めても、
本当の自分の姿を知ることはできません。
ではお釈迦さまは私たちの本当の姿をどう教えられているでしょうか。
釈迦に赤裸々にされた人間の実態とはいかなるものか、
それを聞くと、あまりの内容に絶句されることと思います。
以下は人間の赤裸々な姿をお話ししているブログです。
心の中を暴く