年末に高倉健、菅原文太と相次いで魅力的な俳優が亡くなり、
年明けてからは、柔道でオリンピック金メダリストの齊藤仁、
中日で一本足打法が記憶に残る大豊泰昭と、
連日のように死去を報ずるニュースが流れました。
これら最近のニュースに流れる有名人の訃報に、
私は以前と違う、虚を突かれたような驚きを感じます。
小学生だったときに、有名人の訃報がテレビで流れると
母が洗濯物を畳む手を止めて
「えっ!○○○○、死んだの!?」
と驚いていたのを思い出します。
私にとってはその亡くなった人の全盛期を知らず、
なじみがないので、
年相応に亡くなったのだな、と受け流していましたが、
その有名人の活躍を見て育った母の世代には
何か感じ入るものがあったのでしょう。
私も40代になり、
最近は同時代を生きてきた人の訃報を聞くようになりました。
明らかに以前とは違う驚きがあり、
あの時の母の気持ちもわかってきました。
これがさらに年を取ると、
自分と同年齢の有名人の死去を耳にすることになり、
さらには職場や近所の友人の死去も経験するに至っては、
さらに心を揺さぶられることになることでしょう。
46歳にしてガンで急逝した哲学者、池田晶子の遺稿となった
コラム「人間自身」の中の一節を思い出します。
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「ローマでは、墓石にその人の来歴
(いくつで結婚、何児を成し、
かれこれの仕事に従事して、
こんなふうな人物だった、というもの)
など、書き物を遺す習慣がある。
それを見て人物を想像しながら、
墓地を散策するのも、
一つの楽しみであるらしい。
なにしろ、人生つまり、その人間の最終形が、
そこに刻印されている。
人は、記された言葉から人物を想像したり、
感心したりしながら
読んでくる。
と、そこにいきなり、
こんな墓碑銘に出くわす。
“次はお前だ”
楽しいお墓ウォッチング、
ギョッとして人は醒めてしまうはずだ。
他人事だと思っていた死が、
完全に自分のものであったことを
人は、嫌でも思い出すのだ。
“次はお前だ”
というこの一言の持つ圧倒的な力にはかなわない。
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「あの人、亡くなったんだって」
と人の死ばかりいつまでも聞いておれるのではない
いつか自分が死んで、
「あの人、亡くなったんだって」
と人から言われなければならない時が来るのです。
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