■「人の信心、アレコレ言うものではない。」
という人があります。
「その人がそれを信じて喜んでいるんだから、
他の人が首突っ込むものではない。」
こういう意見は人生経験豊富な常識人ほど、
主張することではないでしょうか。
信じているものをアレコレ言われるのは、
ちょうど好きになった女性の悪口を言われるようなもので、
誰しも腹が立つことです。
■そういう点からいうと、
親鸞聖人という方は
人の信じていることを
アレコレ言われた方です。
信心にも
「正信心、真実信心」と
「迷信、邪信、間違った信心」と
二つある、と分けられ、
それはもう徹底して、
その分別を明らかにされた方だからです。
それがあまりにもハッキリしていたので、
間違っているといわれたほうが腹を立て、
ついには越後流刑(今の新潟県)になっておられます。
■しかしよく考えてみてください。
たとえば、自分の娘が年頃になって
結婚したいという男性を連れてきたとしましょう。
その男性、なんと父親である自分よりちょっと上の年齢、
しかも暴力団の幹部、背中には刺青、愛人はほかに2人・・
そんな人だったらどうします
娘はとても嫁がすわけにはいかない、
と必死になることでしょう、
「お父さん、うるさいな~
人の信じている人にアレコレ言わないでよ」
といわれて、
「うむ、それももっともだ。
人の信心あれこれ言うものではないもんな。」
と引き下がるでしょうか。
「早まるな」
「目を覚ませ」
「だまされているんだ」
世の親なら、黙っておれないでしょう
大体父親というのは娘が連れてきた男性を、
たとえ誰であっても反対するものなのです
娘が腹を立てようが、うるさがろうが、
干渉せずにおれないのは、
だまされて悲しむ娘の顔が見たくない、という親心でしょう。
【信じたものに裏切られた時に人は苦しむ】
それがよくわかるから、
「娘を苦しませたくない。」
「裏切るようなものを信じてほしくない。」
と親が必死になるのは当然のことです。
■「誰が何を信じていようが、
だまされて苦しい目にあうのはその人なんだから、
オレには関係ない、ケンカは嫌だし」
と無関心な人は無慈悲な人です。
親鸞聖人が
「裏切られて嘆く人々の姿は見ておれない」
とやるせなく、流刑にあわれるまでに、
徹底して正しい信心を明らかにされ続けられた、
その御信念のおかげで
私のような者が
仏法を聞かせていただくことができたことを思うと、
感謝の心に胸が詰まります。
言葉もありません。
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