親鸞に学ぶ幸福論

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忙しい時に、人の幸せまで考えておれるかとふと思う…。仏教を学んでいくと、『慈悲』を持つことがいかに難しいかと知らされる【抜苦与楽(3)】

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仏教に『慈悲』という言葉があります。

 

今日では日本語になっており、

いろいろな場面で使われます。

 

「あの人は慈悲深いよ。」

「あのやり方は慈悲のかけらもない。」

と使ったりしますね。

 

では元来仏教で『慈悲』とは

いかなる意味を成すのでしょうか。

 

『慈悲』とは

『慈』の心、

『悲』の心、ということです。

 

漢字の造りから見ても

「心」という字がついていますよね。

『慈』も『悲』も共に心のことです。

 

ではどんな心をさすのか、といいますと

『慈』とは、「抜苦(ばっく)の心」です。

『悲』とは、「与楽(よらく)の心」です。

 


『慈』とは、苦しんでいる人がいると、

その苦しみを抜いてあげたい、という心です。

 

苦しんでいる人がいると、

こちらまで切なくなってくる時ありますよね。

苦しんでいる人をほおっておけない、

そういう心です。

 

「あいつの自業自得じゃないか。

オレには関係ない。

it's not my business.

知ったことか。」

 

苦しんでいる人がいても

見て見ぬ振りができる人があれば、

それは無慈悲な人です。

『慈』の心のない人です。

 

たとえその苦しみが自業自得であっても

その苦しみを何とか和らげられないものか

と心がせわしくなるものです。

 

東日本の震災でも

何か自分にできることないだろうか、と

日本中が立ち上がりました。

 

苦しんでいる人がいると、

じっとしておれなくて、

何かせずにおれなくなる、

これが『慈』の心です。

 

たとえ自分はどんなひどい目にあっても

どんな苦難の中で命終わろうとも

この人を絶対に不幸にさせてはならない

と『慈』の心に動かされたとき

人は強くなります。

 

『悲』とは、相手に喜んでもらいたい、

笑顔にしたい、楽しませたいという心です。

 

自分さえ喜んでおればいい、とは思えない

あなたも美味しいラーメン屋に感激したら

あの人にも食べさせたい、という気持ちになるでしょう。

 

他の者はまずいラーメン食べてろ

この店は俺だけが楽しむんだ、という人は

もしあれば、これまた無慈悲でしょう。

 

自分さえ評価されればいい、

自分さえ儲かればいい、

自分さえ好かれたらいい、

この忙しいのに、あとの人の幸せまで考えておれるか

これでは無慈悲な人になってしまいます。

 

この人を笑顔にしたい

幸せな人生を送って欲しい

どうすればこの人に貢献できるか、

どうすれば喜んでもらえるか

この「どうすれば」は

崇高な悩みといえましょう。

 

たいていの人は

どうすれば認められるか

どうすれば儲かるか

と自分のことでクヨクヨ悩むものです。

 

周りから取ることを考えるのではなく、

周りに与えることだけを考える

この『悲』の心に動かされたとき

人は強くなります。

 

仏教では、仏の慈悲について

『衆生苦悩我苦悩 

 衆生安楽我安楽』

と説かれています。


(衆生(人々)の苦しみが

 私の苦しみである


 衆生(人々)の幸せが

 私の幸せである)

 

この大慈大悲で説かれたのが

仏の説法なのです。

 

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