親鸞に学ぶ幸福論

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2600年前から変わらない「人間差別なし」と説く仏教観に驚いた

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当時はまだ20代でしたが、

アメリカに住み始めた時、

この際、英語が喋れるようになろうと思い立った私は、

アダルトスクールに行きました。

 

アダルトスクールとは

カリフォルニア州が移民の英語教育のために設置した、

大人向けの学校のことです

 

近所にある小学校が、

夜7時からはアダルトスクールとなっていたので、

無料だった事もあって

毎週2回通うことにしました。

 

 

私一人日本人で、

あとはみんなメキシコ人でした。

 

教師はボランティアと思われる、白人のおばさんでしたが、

冗談も早口の英語で、

こちらは聞き取れないことが多いのですが、

周りのメキシコ人は笑いますし、

英語で教師と会話できていますし、

どうも私がもっともできないようだ、と

最初の授業で現状を把握しました。

 

ところが筆記テストになると、

立場が逆転しました。

 

私は文法や単語はほとんど全て書けて、

クラスで一番優秀でした

 

喋れないし、聞き取れないが、

書くのと読むのは得意、という、

日本の英語教育の典型例だな、

と自らに苦笑するのでした

 

そんな授業の一コマを今日は紹介して、

今日のテーマに触れてみましょう。

 

その授業で面白かったのは

「これわかる人」

と教師が言うと、

「はい」と手を上げる人が多いことです。

 

大の大人がですよ

40も過ぎたようなひげのメキシコ人のおじさんが

いっせいに「はいはい」と

手を上げるのはびっくりしました。

 

しかも指されると、嬉しそうです。

 

黒板に出てきて書いてください、と教師が言うと、

嬉しそうにニヤニヤしながら

身体をゆさゆさしながら出てきます。

 

ところが黒板に書く段になって、

チョークを持って考え込んでしまったり、

堂々と間違いを書いたりするのです。

 

「何じゃ、この人たちは」

とずっこける思いでした。

 

日本人だったら分かったときに

「はい」「はい」と手を挙げまくるのは

小学校低学年までで、

そんなこと中学や高校に入ってもしていたら、

目立ちたがりのおっちょこちょい、

きっと今なら、

「KY(空気読めない)なので、シカト(無視)」

されるのでは。

 

わかっていても手を挙げようとしない日本人。

わかっていなくても手を挙げるメキシコ人。

 

この場合、メキシコ人は名誉欲が強く、

日本人は奥ゆかしい、

ということではないでしょう。

 

メキシコ人が目立ちたくて手を挙げるのは

自己顕示の「名誉欲」ですが、

日本人が、わかっていても手を挙げないのは、

「目立たなければ、人に悪く思われないだろう。」

「協調性のある奥ゆかしい人と思われるだろう。」

と計算しての行動ですから、

これもまた「名誉欲」です。

 

煩悩の中の「名誉欲」に動かされている姿は

メキシコ人、日本人共に、

変わらないのです。

 

煩悩具足のわれわれが、

生まれ育った環境、文化で、

その使い方が変わってくる。

 

いわば煩悩、名誉欲の表現の仕方が変わってくる、

ということなのです。

 

生まれ育ち、環境、文化、生活スタイル、男女、しつけ、教育などで

煩悩の使い方が変わるだけで、

煩悩に振り回されている人間の実態は

少しも変わるものではありません。

 

この人間の実体に目を向ければ、

言うも言わざるも煩悩、

裁くも裁かれるも煩悩、

煩悩具足の人間に差別はありません。

 

イタリアの寓話にこんなのがあります。

 

夜、山の一軒家でローソクが、

自分ほど明るいものはなかろうと自慢しているところへ、

ランプが来て同じように威張った。

 

そこへまた電気が来てうぬぼれると、

ローソクもランプも恐れ入って頭を下げる。

 

やがて東天から太陽が昇ると、

ローソクもランプも電気も光を映奪されて、

皆暗くなった。

 

自慢話は絶えたという話です。

 

闇に対すればローソクが明るいし、

ランプはもっと明るい。

ランプより電気が明るいのは事実でしょう。

 

しかし太陽の前では、

"皆暗い"としか言いようがありません。

 

法鏡に映し出されたら、

人類皆『煩悩具足』で、

差別はありません。

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