無始久遠、悠久の過去から、輪廻を繰り返し、
永遠の未来へと連なっていく生命において、
人間が生を受けて、滅するまでのこの肉体は、
滔々と流れるガンジス川に浮かぶ
一抹の泡のようなものだ、と釈尊は説かれました。
日本語にも
「水泡に帰す」
「泡沫の夢」
「水の泡になった」
という言葉がありますが、この仏教思想が浸透したものです。
トルストイの大作 『アンナ・カレーニナ』のリョーヴィンは、
トルストイ自身の分身ともいわれる人物ですが、
以下は、そのリョーヴィンの台詞です。
「私とは何者であるか、
なんのために私はここにいるのか、ということを知らないで、
とても生きていくことはできない。
(中略)
無限の時間の中に、
無限の物質の中に、
無限の空間の中に、
泡粒のようなひとつの有機体がつくりだされる。
その泡はしばらくのあいだそのままでいて、
やがて消えてしまう。
その泡が-----このおれなんだな
(中略)
それは、この方面における人間の思索が、
数世紀にわたる苦心の末に到達した、
唯一にして最後の結論であった。」
出来ては、矢継ぎ早に消える、水の泡のような命。
その泡を少しでも長く保とうとしているのが【医学】
【政治】や【法律】も、
その泡が何かにぶつかって壊れないように
対処しているものといえましょう。
【文化】や【娯楽】は、この泡が楽しめるように
尽くしているということになります。
泡のごときの人生。
その泡でなければ、果たせない使命はあるのでしょうか。
あるとしたら、それは何でしょうか。
これは釈尊出家の原点でした。
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