先回まで3回にわたって、
「僧に非ず」と言われた御心について話をしてきました。
では次に「俗に非ず」とはどういうことでしょうか。
親鸞聖人は、肉食され、家庭を持たれたのだから、
俗人として生きられたのではなかったのか、
なぜ「親鸞は俗人ではないぞ」と仰言ったのでしょうか。
それは本当の「僧」の相を知っておられたからです。
お釈迦様は、仏弟子の自覚に燃え、
仏の教えを説く人を『僧』と言われました。
仏の代官として、
みなに仏の教えをお伝えする使命を持つ人のことです。
聖徳太子は17条憲法に
「篤く三宝を敬え 三宝とは仏法僧なり」
と言われています。
仏宝、法宝、僧宝の三つの宝を敬いなさい、
と憲法に定められました。
○仏の悟りを開かれた方を敬いなさい。
○仏の悟りを開かれた方の説かれた教えを敬いなさい
○仏の説かれた教えを伝える人を敬いなさい
と言われています。
仏の教えを正しく説き明かされる方を、
本来『僧』というのです。
ところが今日は「僧侶」といえば、
葬式や法事を執り行う人、と思われています。
手次の寺、檀家寺、○○寺の門徒と
地方によっていろいろ言われ方がありますが
いずれも親族の不幸があったときに
葬式や法事を頼む寺の事であり、
先祖代々の墓を番している寺のことだと思われています。
本来は、手を次いで浄土までお連れする
と言う意味で「手次の寺」なのですが、
導くべき立場の者も、そんな自覚はなく、
よって導かれる人たちは
仏教は死んだ人に用事があるものと思っています。
本来、僧侶とは仏法を説くことに専念する立場なのです。
仏教の教えを明らかにするのは難事業だから、
ほかの仕事を片手間にできるはずがないのです。
精一杯法を説く僧を敬う気持ちから、
門徒の人が財や米を布施をして、その財施で生活するのが
お釈迦様以来、変わらぬ僧侶のあるべき姿です。
肝心の法を説かず、
葬式法事で生計を立て、
戒名や墓の収入の計算ばかりしている僧は
もはや俗人であって、
お釈迦様が説かれた「僧」ではありません。
釈迦の教えをそのまま伝えることに
重い責任と誇りを常に感じられ
生涯そのこと一つに貫かれた親鸞聖人は、
「私こそ僧だ」と、全人類に向けて宣言されているのです。
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