親鸞に学ぶ幸福論

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なぜ仏教では心を重んじるのか

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先日、仕事の帰り道にちょっと寄り道して、

倶利伽羅峠の古戦場を見てきました。

平家物語にもある、木曽義仲が平家を破った合戦です。

行ってみて、戦いが繰り広げられた山裾の大きさ、

また5万とも10万ともいう武者の人数が入り乱れての戦であったことを知り、

相当大規模な戦であったことを体感できました。

実際その場の空気に触れてみないと、

わからないことが多いですね。


【今日の仏語】は『三業』の3回目です。


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なぜ仏教では口業や身業より意業を重視するのでしょうか。

前回はこの問題提起で終わりました。

今日はその答えです。

『心が口や体に現れるから』です。

 

今あなたがこの文章を読んでおられるのは『身業』ですが、

そもそも心が「読もう」と思わなければ、

今この文章を読んでいる、という身体の行為はなかったのですから。

 

ネットサーフィンでたまたま目に止まっただけだ、

と言われるかもしれませんが、

その時に「読もう」と心が動かなかったら、

今読んでおられないに違いない。

 

あなたが今この文章を読まれているのは

「読もう」と思われたから、なのです。

 

あるいは今日、あなたが誰かとされた会話ですが、

そのすべては、心が「こうしゃべれ」と命じて

口がしゃべったのです。

 

まったく考えていないことを口が勝手に動き出す、ということは

夢遊病者か催眠術以外はありません。

 

よく「今のは失言。忘れて忘れて」と言いますが、

心に思っていたから口を滑らせたのです。

心に思っていないことが口に出ないのですから。。

 

こう話しすると、

心にもないことを言う人って、いるけど、

あれはどうなんだ?

と反問してくる人もあります。

 

その場合は「心にもないことを言え」と心が命じて

口がそのように言うのですから

やはり心が口に現れたのです。

 

その人がやっていることは心がやらせたのであり、

その人の言っていることも心が言わせているのです。

身体や口は心が表現されたものです。

 

身体や口は心の奴隷です。

心が命じたようにしかやれないし、言えないのです。

 

暴力団新法では、

暴力団が組員に命じて麻薬の売人をやらせた場合、

その罪の責任は実際に手がけた組員にもありますが、

命じた組長の責任がもっと重い刑罰に処せられるよう

なっております。

 

命じたものの責任は重いのです。

心で思っていることを口はしゃべり、体はやるのです。

 

「やらなきゃと思うんですけど身体が動きません。」

という人は、

心が命じても体がやらないことあるじゃないか、

と思われるのかもしれませんが、

その人が行動に移さないのは、

「やらなきゃ」の心の底に

「やらなくてもいい」

と命じている心があるからです。

 

こんな事してちゃだめだ、と思うんですけど。。と渋面しながら

借金や不倫に走る人ありますが、

あれも心の深いところが

その人の体を動かしているのです。

 

その人の言動の一切を動かす心こそ、

最も見つめなければならないのは当然ではないか、

とお釈迦様は説かれるのです。

 

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