■リューマチで絵筆を握れなくなった晩年のルノワールは
筆を持つ手を包帯でグルグル巻きにして、
執念でキャンバスに向かい続けました。
才能を発揮できない無念さを、
次のように語っています。
「手足がきかなくなった今になって、
大作を描きたいと思うようになった。
ヴェロネーゼや、彼の『カナの婚礼』のことばかり夢みている!
なんて惨めなんだ!」
■私たちは自分の手や足は、自分の思い通りに動くと信じて疑わず、
毎日生活しています。
「愛するあの人は自分の思い通りにならない、
会社の部下は言うこと聞かない、
でも自分の、この手や足はいつも自分の思い通りに動いてくれる」
と当たり前のように思っているのですが、
ある日突然、この手や足までもが
自分の思い通りに動かなくなってしまう時がきます。
「今まで体が自由に動かせるのは、当たり前ではなかった」
と痛感するときがあります。
■ルノワールなら、そのときになって始めて
「絵筆が自由に握れるときにあれも描いておけばよかった、
大作も描きたかった」
と煩悶したのでしょう。
■『ロード』という歌の歌詞に
「何でもないようなことが幸せだったと思う」
とありました。
あの時、部屋に帰れば明かりがついていて、
「おかえりなさい」と出迎えてくれた、
あの「なんでもないようなこと」が幸せだったと、
失って始めて気づく。
■大切なものが大切なものとわからず、
失ってしまったときに
如何に自分がそのことを支えにしてきたか、
頼りにしてきたか、取り返しのつかないことをしてしまったか
初めて思い知らされるものです。
■「いつまでもあると思うな親と金」
ということわざもあります。
いつもは口うるさい親も、
失ってはじめて如何に大事にされてきたか、
支えてもらっていたかわかる、
そして孝行できなかった自分に悔やんで泣くのでしょう。
■お金もある間は何の気なしに使いますが、
無くなって節約を迫られて、始めて金の重みを知るものです。
■いろいろな事例をだしましたが、
健康も、恋人も、親も、金も、
わが身から離れ、悲しみに沈むときになってはじめて
いかにそれを愛し、支え、頼りにしてきたか、骨身にしみます。
これを仏教では「愛別離苦」といいます。