親鸞に学ぶ幸福論

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親鸞聖人の越後での布教の原動力

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■親鸞聖人が越後を布教に回られた際に、

詠まれた歌が今日に残っています。

「この里に 親をなくした 子はなきか 

 み法の風に なびく人なし」

“この越後の地に、親を亡くした子供はいないのだろうか

仏法を聞く人が現れない”

一軒一軒家々を回られ、仏法を伝えようとされるも、

門前払いが続く日々、

なかなか仏法を聞きたいという人がいないのを

「み法の風に なびく人なし」と歌われています。

親鸞聖人が流刑の地、越後にて

大変なご苦労をされて仏法をこの地に伝えてくだされたと

地元の人が感謝して、

この歌が刻まれた石碑が、彼の地には今も残っています。

 

■親鸞聖人の苦悩を詠まれた歌として知られていますが、

これは実は、親鸞聖人の喜びを詠まれた歌なのです。

歌の中に、

「この里に 親をなくした 子はなきか」とあります。

これは“この越後の地に、親を亡くした子供はいないのだろうか”

という意味です。

このように親鸞聖人が詠まれたのは、

聖人ご自身が、仏法を聞きたいと思われたきっかけが、

ご両親の死だったからです。

4才でお父さんを亡くされ、8才でお母さんを亡くされ、

今度死ぬのは俺の番だ、死んだらどうなるか、と

自分の後生に驚きを立って仏門に入られたのが、親鸞聖人です。

 

■「仏法を聞きたいという人がいないのは、

私のように親を亡くしたことがない人ばかりだろうか」

とご自身の経験から照らし合わせて、詠まれた歌なのですが

もちろん越後の地に、親を亡くした子がたくさんいるのは、

親鸞聖人はよく分かっておられたはずです。

いつまでも死なない親がいるはずがないのですから、

いたるところに親を亡くした子がいる。

ならば親鸞聖人がそうだったように、

仏法を聞きたい人は、いたるところにいなければならない。

しかし、仏法を聞こうという人がいない。

どうしてなのか。

 

■「自分は親の死を機縁に、仏法を聞きたいという心が起きた。

ではみな親が死ぬと、仏法を聞きたくなるかといえば、

そうではない。

同じように親の死に目にあっても、

仏法を聞きたいという心にならない人ばかりだ。

何で自分は仏法を聞きたいという心があの時、起きたのか。

あの時、仏法を聞きたいという心が起きなければ、

今の私の仏縁はなかった。

仏法を聞けなかったら、この広大無辺な幸せを知らずに、

人生は虚しく終わっていた。

どうして聞きたい心が起きたのだろう、不思議だ、有り難いことだ」

と身の幸を感謝せずにおれない、喜びをかみしめて

詠まれた歌なのです。

 

■これは仏法を伝えようとしてわかることですが、

仏法を人に話してみて分かるのは、

「いやあ、聞く人がいないなぁ」ということです。

 

■同時に思います。

「考えてみれば無理もない、

儲け話でもない、人から好かれる秘訣でもない。

欲をかき立てる話ではないのだから」

さらに思うのは、

「どうして自分は聞けたのかな。

こんなに聞く人はいないのに、何の間違いで自分は聞けたのかな。

聞く身になれたのか」

と自分の幸せを感じるのです。

 

■「この里に親をなくした子はなきは、み法の風になびく人なし」、

この歌には、そういう喜びがこめられています。 

その喜びが、話しても話しても聞いてくれなくても、

その中、この里を一軒一軒を伝えていかれた原動力となったのです。

 

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