親鸞に学ぶ幸福論

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人生初デートでの赤裸々な心の告白

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【虚仮(3)】

 


以下は仏教講座に来た大学生の青年が語ってくれたことですが、

その話が赤裸々だったのと、

よく心を見つめているなあと感心したので、心に残っています。

 

彼女いない歴=自分の年齢だった当時の彼が、人生初デートで、

彼女とご飯を食べた時、美味しそうに笑顔で食べる彼女に

「この笑顔をずっと守っていきたい」

と幸せな気分になったそうです。

同時に、今まで自分のことしか考えてこなかった冷たい自分にも、

他人を守りたいという、こんなあったかい心もあったんだ、

とうれしくなり、そういう心を教えてくれた彼女に、

感謝一杯になったそうです。

 

それからいろいろあって次第にうまくいかなくなり、

別れたそうなのですが、しばらくしてその彼女は、

別の男性と付き合い始めたそうです。

そしてある日、二人が楽しそうに笑顔で歩いている姿を

町で目撃してしまい、腹が立ってしようがなかった

と言っていました。

「何を楽しそうにしてんだ!なんでそんな笑顔になれるんだ!」

と彼女の笑顔に無性に腹が立ったそうです。

 

以前付き合っていた時は、

「笑顔でいる彼女を守りたい、不幸にさせたくない」

という温かい心が自分にあった、と思っていたのが、

今では笑顔で幸せそうにしている姿が腹立たしい、

としたらそれはなんとしたことか。。。

笑顔を守りたいという、純粋な温かい心があるなら

誰と付き合っていても彼女が笑顔なら微笑んでおれるはず。

ところが自分以外の誰かとのデートの時は

一転笑顔でいると怒りが出てくる、

むしろつまらなそうにしていてほしかった、

不満顔でいてほしかった、と思うのですから

本当にあの時思ったのは、

彼女の幸せを守りたいという温かい心だったのか?

結局自分とデートしている状態の、彼女の笑顔を守りたい、

ということではなかったか?

そんな心に気付いたそうです。

 

私にもこんなことがありました。

中学時代、塾の行き帰りに、自転車で

当時好きだった人の家の前を通っていたのですが、

特に帰りの夜道でよく空想していたことがありました。

「彼女が誰かにからまれていないかなぁ、

そうしたら、たとえボコボコにされてもいいから、

彼女を助けに飛び込んでいくんだがなあ」と

ふと漫画なんかにありがちのシーンを想像していたのです。

今にして思えば、本当に彼女を守りたい心があるなら、

からまれているシチュエーションをひそかに空想すること自体、

彼女に失礼な話しです。

どんな心でそんな想像をしていたのか、赤面するばかりです。

 

正義を語る政治家や精力的な人権運動家の主張は立派で、

説いている理屈は正論で、その活動にも意義があり、

その意見にも耳を傾ける価値がある、としても、

その人にそれを言わしめている動機の本当に深いところには、

おそらくなりふり構わぬ嫉妬心や競争心、

あるいは非常に個人的な劣等感など、

さまざまな何かがあるのでしょう。

それが全てとは言いませんが、

その人を動かしているエンジンの一つであり、

それはおそらく本人さえも自覚していないものであったりします。

 

私たちは自分の心なのに、よく分かっていないものが

たくさんあり、実は分かっている自分の心の方が

氷山の一角だと、仏教では説かれます。

私たちの心の中の温かい心や正義を守りたいという心も、

その実態を深く見つめていくと、

そこには誰にも言えないような心が見え隠れするのに

気づくのではないでしょうか。

親鸞聖人は、仏教を聞き、法の鏡に照らされたご自身の姿を

『虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし』

“ウソ偽りのこの身には、清らかな心は全くない”

と悲痛な告白されています。

 

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