親鸞に学ぶ幸福論

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教行信証全巻には大歓喜の声が響きわたっている

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【教行信証(2)】


親鸞聖人の主著『教行信証』について

先回に続き、話しをいたします。

 


『教行信証』全六巻は「よろこばしきかな」で始まり、

「よろこばしきかな」のお言葉で終わります。

絶対の幸福に救い摂られた聖人の、

書いても書いても書き尽くせぬ喜びが全巻にあふれています。

文芸評論家の亀井勝一郎氏も、

「『教行信証』全巻には大歓喜の声が響きわたっている」

と驚嘆しました。

 


私たちも時に「ああ、幸せ」と高揚感に包まれることがあっても、

何か起きると、あの幸福感はどこへやらで、

すぐ憂鬱な思いが胸一面を襲います。

なまじっか幸福の座に上がると、何も起きる前から、

その幸福の座からいつ引きずり下ろされるかと戦々恐々とし、

よけい悶々と悩むものです。

 


親鸞聖人が獲られた絶対の幸福は、

そんな、今日あって明日どうなるか分からぬ幸福ではありません。

色あせることも薄れることもない安心、満足を

聖人は『教行信証』に高らかに謳い上げられており、

その熱火の法悦が、八百年の時を超えて、読む者の胸を打ちます。

 


絶対の幸福は、私たちが頭でこねくり回して、

「考えてみれば幸福な方だよ」

「ああいうのと比べたら今を感謝しなきゃ」

と言い聞かせなければならないものでもありません。

それは『教行信証』の冒頭から、

絶対の幸福になられた親鸞聖人の燃えるよろこびが、

ビンビン伝わってくることからもわかります。

「あいがたくして、今あうことをえたり」

「聞きがたくして、すでに聞くことをえたり」

あいたくてあいたくて求めていたものに、今あえたという、

聖人のほとばしるよろこびの告白です。

 


ではこのように親鸞聖人が筆を取られ、

ご自身のよろこびの告白を紙に残された目的は

いったいどこにあったのでしょうか。

ふつう人に何かを話す時、誰かに向かって何かを書く時には、

目的があります。

話しているその人にどういう気持ちになってもらいたいのか、

読む人にどんな思いを持ってもらいたいのか、

相手があって話したり、書いたりするのです。

 


確かにただうれしさのあまりのろけたり、

つい自慢したりすることもあるにはありますが、

教行信証がそんな一時的な感情や思いつきでないことは

あの緻密な構成、徹底した推敲の跡からもよくわかります。

どんな困苦にも打ち克って「これ一つ伝えたい」という

何か強烈なメッセージがなければ、断じて書ける書ではありません。

 


では聖人が絶対の幸福の境地を語られた目的は何だったのか、

それは

「すべての人に絶対の幸福があることを知らせたい。

親鸞と同じ心になってもらいたい」

これ一つでした。

「道俗時衆共同心」

“すべての人よ、どうか親鸞と同じ心になってもらいたい”

これが親鸞聖人の真情でした。

 


「絶対の幸福なんかなれるもんか」

「私みたいな者には無理だよ」

としか思えない私たちに
 
 「なれるんだよ。生きている今、なれる時がある。

すべては他力(阿弥陀仏のお力)だから、皆なれるんだ」

と、親鸞聖人は『教行信証』で励まし続けておられます。

 

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