【諦観(1)】
「仏教には何が教えられているんですか」
と私は職業柄よく聞かれるのですが、
この間、カフェ勉強会で尋ねられた際、
「仏教とは“あきらめる教え”なんですよ」と切り出してみました。
そのちょっと意表を突く答えにそこに集った方たちも
「それはどういうことですか」と身を乗り出す感じになられました。
なにしろ仏教の話しに関心を持ってもらわなければ、
話しも進みませんから、こんな切り口で話してみたのですが、
あなたなら「仏教=あきらめる教え」と聞いて、どう思われるでしょうか。
「なるほど、その通りだ」と思われるか、それとも
「そんなように思わないが」と反論されるでしょうか。
中には、「仏教とはそんなネガティブな教えなんですか」と、
失望する思いを持たれる方もあるかもしれません。
それは「あきらめる」という言葉に、
どこか消極的な響きを感じ取られるからでしょう。
確かに一般的に「あきらめる」という言葉は
「いいかげん彼女のことはあきらめろ」
「司法試験、何回も落ちているし、もう弁護士あきらめよっかな」
と使われるように、今まで努力してきたことを投げ出してしまう際に用いられる言葉です。
「情熱大陸」や「仕事の流儀」などで取り上げられる成功者のドキュメンタリー番組は、
あきらめなかった人たちの物語です。
苦境は次々と彼らにもやってきますが、それに屈せず、あきらめなかったからこそ、
今の彼らがあることを教えてくれます。
「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という名言もあります。
先日の平昌オリンピックでも、30歳を過ぎた小平奈緒選手の金メダルは、多くの人に感動を与えました。
10代、20代の時は全然勝てなかったところを、
努力を重ね、ついに栄冠を獲得した彼女のあきらめなかった姿勢が多くの人の胸を打ったのです。
このように「あきらめない」ことが素晴らしいことであり、
逆に何か苦しいことがあるとすぐ「あきらめる」のはだめなことだ、
という価値観の人が多くありますので、
そういう人が「仏教はあきらめる教え」と聞いて、失望されるのでしょう。
しかしここには大きな誤解があり、その誤解とは、
仏教で説く「あきらめる」と、今日の日本で一般的に言われる「あきらめる」とは、
意味が大きく違う、ということです。
では仏教でいうところの「あきらめる」とはどんな意味なのか、次回、お話しいたします。