親鸞に学ぶ幸福論

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仏教の説く「あきらめる」の本当の意味とは

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【諦観(2)】

 


「仏教とは“あきらめる教え”ですよ」とお話しすると、

仏教とはそんなネガティブな教えなのか、と思われる方があります、

それは「あきらめる」と聞くと、

努力をやめてしまう、追い続けてきたユメを断念する、という

意味合いを感じ取られるからでしょう。

 


しかし仏教は「夢を持ち、続けて努力すること」の大切さを教えていてこそすれ、

決して努力を続けることをやめなさいと諭すような教えではありません。

 


「続けることの大切さ」を教えたこんな仏教の歌があります。

「恐ろしや たゆまぬ歩み かたつむり」

あの歩みののろいカタツムリでも、たゆまず歩み続け、

やがて鬼瓦の頂上まで登っていく、という歌です。

目指す先にいかに困難なことがあろうと、遅々として進めなくても、

すぐに逃げたり、止めたり、放り投げたりしせず、

たゆまぬ努力を続けていけば、やがて高みに登れるのですよ、

とお釈迦さまは様々な場面で説かれています。

 


ではそんな仏教がなぜ「あきらめる教え」と言われるのでしょうか。

それには「あきらめる」という言葉の正しい意味を知らねばなりません。

 


本来、仏教で「あきらめる」とは「諦観」と書きます。

「諦観」とは「アキラカニミル」、

「どうしてそういう結果になってしまったのか、その原因を明らかに見なさい」ということです。

仏教では「全ての結果には必ず原因がある」「原因なしに起きる結果は絶対にない」と説かれています。

 


平成30年も2ヶ月間が過ぎました。

この2ヶ月間の間にも、あなたに色々な出来事が起きたことと思います。

今年初めて出会った人もあったでしょうし、

お別れした人もあったかもしれません。

うれしいこと、悲しいこと、苦しいこと、

色々なことがあなたの身の上に起きたでしょう。

それはあなたに起きた結果です。

それにはそうなるに至った原因が必ずあったのですよ、

と仏教では説かれています。

たまたま何の原因もないのに突然ポンとそういう結果は起きません。

結果には必ずそうなるに至った原因がある、その原因を明らかに見なさい、

と教えられるのが仏教の「諦観(アキラカニミル)」という言葉なのです。

 


この「諦観(アキラカニミル)」という言葉が、

「あきらめる」になって今日に至ったのです。

言葉が少々変化しただけならとよかったのですが、

意味までが変わってしまって、

本来「どうしてそういう結果になったのかその原因を明らかに見よ」という教えが

今日のように「苦しいことから逃げ出す、努力をやめてしまう」という意味に変わってしまいました。


なかなか司法試験に合格できない人に「いいかげんあきらめろ」というのは、

本来は「もうやめろ」という意味ではなく、

「なんで試験に落ちるのか、その原因を見よ」ということであり、

その原因が勉強量が足りない、ということなら、もっと勉強しなさい、という意味になります。

 


彼女にメール送っても無視される男性に「彼女のことをもうあきらめろ」というのも、

彼女のことを忘れて違う人探そう、酒でも飲んで忘れよう、という意味ではなく、

彼女に無視されているという結果には必ず原因がある、

その原因となっている自己の言動を改めよう、

という意味です。

 


ですから決して「諦観(あきらめる)」という思考は

ネガティブで、消極的なものではなく、

ポジティブで前向きに道を切り開く考えなのです。

 

 

 

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