【人生の目的(1)】
「人生の目的は何か?」と尋ねれば、
「それは人それぞれだろ」と答える人が多いです。
「金メダル」とか「ノーベル賞」とか「温かい家庭」とか、
人によってそれは違いますが、
その人その人が、自分らしい目的を見つけて、そこに向かって精一杯生きれば、人生は輝く、
と思っている人が一般的です。
しかしそれら「金メダル」、「ノーベル賞」、「温かい家庭」などは、
各人の「生きがい」「ユメ」「生きる目標」といわれるものであって、
「人生の目的」ではありません。
「あなたのユメはなんですか」
「あなたの生きがいはなんですか」と問われれば、
人それぞれの答え「金メダル」、「ノーベル賞」、「温かい家庭」でいいのですが、
「あなたの人生の目的はなんですか」を答えたことにはならないのです。
それは「人生の目的」と「生きがい・ユメ」とは、まったく違うからです。
ほとんどの人が「人生の目的」と「生きがい」「ユメ」を混同しており、
数々の人生本でも同義としていますので、
その違いを理解するのは大変ですが、
両者は明確に違います。
ではどう違うのか、仏教では様々な角度から違いを鮮明にしていますが、
一つ、大きな違いを簡潔に言いますと、
「生きがい」「ユメ」は、時と共に変化するものです。
「とりあえず今はこれを目指す」という目標であり、
まずは合格、次は就職、そろそろ結婚と、変化していくものですから、
人生の通過駅の一つです。
「生まれてきたのはこれ一つ」という「人生の目的」ではありません。
一例を挙げて考えてみます。
数学の難問中の難問として知られる「フェルマーの最終定理」。
17世紀の数学者フェルマーの書「算術」の余白に、
彼自身が書いたシンプルな方程式と
「この方程式を証明する驚くべき証明方法を私は知っている。だが余白が足りないので書かない」
という謎めいた言葉が、それから300年間、世界中の数学者を悩ませることになりました。
フェルマーが残した数式を何とか証明しよう、あるいは反証しようと、
世界の名高い数学者たちがこの証明問題に挑戦したのですが、
300年にわたって、ことごとくその挑戦を退けてきた難攻不落の問題であることから、
いつしか数学者が畏敬を込めて「フェルマーの最終定理」と呼ぶようになりました。
そのフェルマーの最終定理に引導を渡したのが、ワイルズというイギリスの数学者でした。
ワイルズがフェルマーの最終定理を完全に証明したというニュースは
1996年、20世紀最後の数学界の大ニュースとして世界を駆け巡りました。
記者会見で「なぜ世界中の数学者が解けなかった難問をにあなただけが証明できたのでしょうか」と尋ねた記者に
ワイルズは「若い頃からの情熱」を理由に挙げています。
小学校の算数の授業で教師から「フェルマーの最終定理」のエピソードを聞いたワイルズ少年は大変感動し、
算数が大の得意だった彼は、必ず自分が証明してみせると固く心に誓ったそうです。
それからのワイルズは、高校も、大学も、数学者になるため、
しかも数学の中でもフェルマーの最終定理を解くために必要な分野を選び、
やがて数学の教授となりますが、
その目的もすべてはフェルマーの最終定理を証明するため。
論文書く時も、授業する時も、常に頭から離れないのがフェルマーの最終定理でした。
そしてついに50歳の時に完全に証明したのです。
感嘆した記者は「それほど長年にわたって取り組んできた夢を叶えた今の喜びはいかほどでしょうか」とマイクを向けましたが、
ワイルズの言葉は意外なものでした。
「この問題を解いてしまったことで、喪失感がある」
「私にとってあんな魅力的な問題はもう現れないでしょう」
それまではどんな苦難もフェルマーの最終定理を説くためだと思えば、乗り越えることができた、
だんだん証明に到達点に近づいていく日々に、充実感、手応え、生きる喜びも感じてきた、
しかしもう終わってしまった。
これから先、私は何に向かって進めばいいのだろう。
胸にぽっかり穴が空いたような喪失感を言葉にしたのでした。
「ユメ」や「生きがい」や「生きる目標」は
遠くにある時は輝いて見えますが、
かなえてしまうと一時の達成感の満足の後、寂しさが襲います。
「さてその次は何をすればいいのだろう」という心になります。
「この身になるための人生だったのか」という人生目的成就の喜びとの違いはここにあります。
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