【雑毒の善(1)】
仏教に『雑毒の善』という言葉があります。
「毒の雑じっている善」という意味です。
私達のやる善行には毒が混じっている、とお釈迦さまは説かれています。
ここでいう「毒」とは、見返りを期待する心、お礼を要求する心、手柄心、恩着せ心のことです。
私が、あなたに、こんなことを、してあげた、してやった、と思う心です。
ある商店街で「正直魚屋さん」の記事が町内新聞に出ました。
拾った千円札を商売道具を放り出して、警察へ届け出たとの記事を読んだ近所の人が、
「馬鹿正直だなあ、千円ぐらい貰っておけばよかったのに………」
と言うと、その魚屋さん、
「いやいや、千円だったから届けたのさ」
と言ったそうです。
千円が落ちているのを見た瞬間、頭の中で算段を始める。
さて、ポケットに入れてしまうか。
それとも拾得物として届けるか。
届けたら町内新聞なんかに「正直な魚屋さん」の記事が出るかもな。。
となると、その記事が広告効果となって魚が売れるだろう。。
いつもの2割増しで客が買うと見積もると。。
千円の広告費だと思ったら安いものだ。
よし、じゃあ!
と計算する。
一万円だったら、誰が届けるかい、といったところでしょう。
そんなときの頭の中の計算は速いものです。
「人のため」と書いて「偽」。
「偽善」とは、「人のためにやる善」という意味になります。
いっけん私利私欲のない立派な善行だと思われるときでも
そこに何かの計算が含まれているものです。
まだこの魚屋さんの場合、
打算で動く自分を客観的に分析しているようですが、
たいてい良いことと判断して行動する場合、
自分の中に「見返りを期待する」私利私欲の汚い心が秘められていること自体、気がつきません。
だから相手がうっかりほめもせず、お礼もないと、
「こんなに~してやっているのに」
「あんなに~してあげたのに」
と怒り心頭になるのです。
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