【雑毒の善(2)】
お釈迦様は、私達のやる善には毒が雑じっている、と言われ、
これを『雑毒の善』と説かれていることを、先回から話をしております。
ここでいう「毒」とは、「私が、誰々に、何々をしてやった、してあげた」という心です。
親切は「受ける」よりも「与える」方が喜びが大きい、
という事実を知っている人はあっても、
親切したとき「与えた」という意識から離れきれる人はありません。
「私が与えたんだ、誰のおかげで与えてもらったと思ってるんだ、他でもない、この私がしたんだ」
という心が毒なのです。
「あなたに与えたんだ、あなたが困っていると思って、あなたのためと思って与えたんだ。
あなたねぇ、涼しい顔して受け取ってるけど、私があなたのためにと思ってしたことなんだよ」
と言いたくて仕方ない。
「私だって余ってたから与えたんじゃない、こんな苦労もあったし、こんな大変なこともあった、それなのに与えたんだ」
とわからせたくなる。
そういう心をお釈迦様は「毒」と言われているのです。
しかもこの毒は与えたモノが大きければ大きいほど、毒性を強めます。
「してあげた」という恩着せ心は大きくなる、ということです。
何かの時に持ち合わせがない友人に1000円貸し
「悪い、今度返すな」と言われたものの、
その後何度も会っているのに、いっこうに返さない。
そうなっても「まぁ、忘れたんだろうな」くらいで
そんなにも腹は立たず、穏便に済ませることができるのは、
金額が1000円くらいだからです。
ところがこれが100万円だったらどうでしょう。
自分にとっても大金だけど、困っている友人を助けられるなら、と思いきって渡したのに、
その後いっこうに返そうとしない、なればどんな気持ちになりますか。
「なんで平気でおれるんだ。申し訳ないとか思わんもんかい。こいつ、人格おかしいんでないか」
と腹が立ってきて、友人への親切を「与えるんじゃなかった」と後悔するようになります。
こんな人間の善の実態を、小釈迦とも称される龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は
『大智度論(だいちどろん)』に、こうあります。
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四十里四方の氷の大氷原がある。
そこに二升や三升の熱湯をかけると、いったんは、地面の氷が解けるが、
翌朝行ってみると、氷が盛り上がっている。
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自分の冷たい心がいやで、
温かい心の人間になりたくて、
他人に善いことをしたのに、
期待どおりの見返りが返ってこないと
「あんなにしてやったのに」と
猛然と、怒り、憎しみの感情がわいてくる。
そんな私達の善の実態を、説かれたたとえです。
こんな雑毒の善しかできない人間が、本当の幸福になるにはどうしたらいいのか、
徹底して教えられているのが、仏教の教えです。
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