親鸞に学ぶ幸福論

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死後に私はどうなるのか、仏教の問い

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【後生の一大事(2)】


「死んだら私はどうなるのか」

この問題を仏教では「後生の一大事」といいます。

この問いに今日どんな答えがなされているか、いくつか挙げてみます。

 

「今頃あの世で、奥さんと一献傾けているだろう」

このセリフは葬儀の際によく聞きます。

しかしこう話す人は、本当にあの世で、

死んだ奥さんと再会して好きな酒を酌み交わすことができる、

と信じて、こう口にしているのでしょうか。

ワインでもビールでもスコッチでも泡盛でも好みの酒で一献傾けられる、

そして好きだった人と再会して、よもやま話に花が咲く、

あの世がそんな自由に振る舞えるところなら結構なことですが、

本気でそう確信している人の言葉とはちょっと思えません。

もし好きな人と再会することができるなら、

嫌いだった人とも再会するかもしれませんが、

そういう可能性は考えてもいない。

好きな人とだけ再会できると思っている。

そんな都合のいいのが「あの世」なんでしょうか。

さらに意地悪くいえば、

もし自分が好きでも、相手が自分を好きでない場合は再会するのか、

あるいは逆に相手が自分を好きでも、自分が嫌いな場合はどうなるのか、

こう問いかけ続ければ、苦笑いでもして、

「そんなこと言われても分からんよ」

とでも返ってくる気がします。

真面目に考えての発言ではなく、

社交辞令の延長のような、都合のいい慣用句の一つのように言われているだけなのか

あるいはぼんやりした願望が口に出るのか、

といったところではないでしょうか。

 

「天国で見守ってくれているでしょう」

こんな言葉もよく耳にします。

芸能人の葬式でコメントを求められ

「天国で笑ってる」などと言っているのが報道されますし、

それを聞く視聴者も何の疑問も持たず、その言葉を受け入れています。

これも思うのですが、どんな「天国」を信じて、こう言うのでしょうか。

「天国」とは、言葉の響きからも結構な処っぽいですが、いったいどんなところでしょうか。

死んだ後がそんな幸せそうな処へ行けるのなら、

死ぬのは怖くないですし、

むしろ朗らかな気持ちになるでしょうし、

自殺するのも「今が苦しいなら早く天国行って楽しく過ごした方がいい」と

奨励されることになってしまいますが、それでいいのでしょうか。

 

こう聞いていくと、

「いや、実際は死んだら無くなると思ってるよ」

と意見も出てきますが、

それならなぜ「天国で見守る」とか「あの世で再会」とか言うのでしょうか。

「精神は脳が生み出す物理的現象にすぎないから、死んだら全てが無になる」

なら、人類に慰霊祭も要らないし、

冥福を祈ることも要らなくなりますが、

なぜまことしやかに「浮かばれてください」「どうぞ安らかに」と手をあわせるのでしょうか。

特に家族など近しい人が亡くなると、

本気で手を合わせる気持ちが起きてきます。

それは一辺の知識では精算できない人間の情、

深い人間性がそうさせるのではないでしょうか。

 

死んだ後は無いのか、有るのか。

有るとしたら、そこは天国なのか、また再会できるところなのか、

いったいどうなっているのか。

これを仏教では「後生の一大事」と説き、

その解決を唯一の目的とします。

 

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