親鸞に学ぶ幸福論

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道俗を差別しない教えが仏教だと説かれた親鸞聖人

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【道俗(1)】


「道俗」という言葉があります。

「道」とは僧侶のことで、出家の人、ともいいます。

家庭を持たず、肉も食べず、仏教の戒律を守り、仏道修行に打ち込む人のことです。

「俗」とは俗人のことで、在家の人、ともいいます。

家庭を持ち、肉も食べる一般の生活を送る人です。

 

その昔、天台や真言の僧徒たちは、

「道」と「俗」の違いは厳密に定義し、その違いが強調しました。

天台宗の比叡山や真言宗の高野山などが長らく女人禁制で猟漁りが禁じられていたのは

戒律を守る僧侶、いわゆる「道」が、修行し、生活する山であったからです。

そこは俗人が足を踏み入れてはならないところでした。

 

俗人が修行の山に入る時には、

出家得度の式で髪を剃り、

世俗の名前を捨て、僧侶とならねばなりませんでした。

そうして仏の道に入った僧侶でも、

もし戒律を破り、俗人のふるまいをしたら、

修行の山からは破門され、

「破戒僧」「堕落坊主」と軽蔑され、生涯、嘲笑誹謗されたのです。

 

この「道」と「俗」の鉄壁を取り払い、

すべての人が等しく救われる大道を開かれたのが親鸞聖人その人です。

浄土真宗、親鸞聖人の教えでは、出家の人と在家の人を差別しません。

親鸞聖人は僧侶、俗人を差別されることなく、

どんな人とも分け隔てなく親しく仏法を説かれました。

ご自身もまた20年の仏道修行を捨て、結婚され、

俗人としての生活を全うされています。

 

そんな親鸞聖人を歴史家は

「山上の仏教」を「山下の仏教」に、

「出家の仏教」を「在家の仏教」に、

「貴族の仏教」を「庶民の仏教」に、

日本の仏教の形、ありかたを変えた人として紹介します。

 

ではなぜ親鸞聖人は、このような大変革を断行できたのでしょうか。

それは仏の眼から見れば、「出家」「在家」の違いなど何もないことをよくよく知っておられたからです。

着衣、剃髪、生活スタイルを変えて在家の人とは違いがあるように振る舞っているが、それは表面のこと、

心の底まで見透す仏の眼からご覧になれば、

すべての人の中身は一様に何も変わらない「煩悩具足の凡夫」です。

欲が渇き、怒りに燃え、ねたみそねみがとぐろを巻く煩悩の固まりであることは

「出家」だろうが「在家」だろうが、何の違いもないことを

はっきり知らされた親鸞聖人は

「出家」と「在家」を一切差別されなかったのです。

 

 

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