【幸福(1)】
フランクルの「夜と霧」には、人間の幸福とは何か、考えさせられる記述が多々ありますが、
今回はその1つを紹介します。
人間とは現在、自分の置かれている環境と比較して、
幸、不幸を判断するものだと思い知らされるエピソードです。
アウシュビッツ強制収容所での一枚の写真が、世界に衝撃を与えました。
蚕棚のような段ベッドにぎゅう詰めになって横たわり、
ガリガリの身体でうつろな眼差しを撮影者に向けている収容者たちの姿を撮った一枚でした。
その写真を見る人みな「なんておぞましい」と顔をしかめましたが、
強制収容所の実体験のあるフランクルにとってその写真は、
「どこがおぞましいんですか」としか言いようのないものでした。
「どこがって、このひどい顔といい、何もかもがですよ」という周りの声に
フランクルは「そうですか」とだけ答え、その場ではそれ以上何も言わなかったそうですが、
フランクルは、その写真に写れた部屋をよく知っていました。
その部屋は収容者の静養棟であり、そこに横たわっていた体験が彼自身にもあり、
その時の心境は「おぞましい」とは正反対の思い出だったのです。
フランクルはこう書いています。
「床はむき出しの土、堅い板敷き一枚敷いて七十人の仲間と横たわるその部屋は
病気と認められただけは入れる静養棟だった。
作業現場に向かわなくていい。
ゴロゴロし、うつらうつらしてもいい。
なんと満足していただろう 幸福ですらあった」
「扉が引き開けられ、吹雪が吹き込み、
疲れ切った仲間が雪まみれになってよろよろと部屋の中に倒れ込んできた。
ほんの数分板敷にうずくまりたかったのだが、すぐにドイツ兵に追い出された。
あのとき仲間にどんなに同情したか、
静養中の身であることをどんなにうれしく思ったことか
また生き延びるためにどんなに大きな意味を持っていたか」
フランクルのその時の気持ちは、
収容所経験のない人には言い聞かせてわかるはずもないことでした。
収容所生活での幸福の一コマとしてフランクルはこんなことも書いています。
一日一杯だけ、ほとんど水としか言えないようなスープが支給されるのですが、
たまに配膳係が寸胴のスープ鍋の底の方からすくったことで、
数粒のまめ、一切れのじゃがいもが器に入ることがあり、
自分に身の上に起きた僥倖に身の震える喜びを感じたというのです。
どんな極限状態でも幸福感は存在することが知らされるエピソードに、
人間の幸せとは何だろうと、考えさせられます。
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