親鸞に学ぶ幸福論

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あきらめるのが大事と説く仏教

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【諦観(1)】

 

『あきらめる』という言葉があります。

司法試験を目指していた学生が、6度目の不合格通知を前に、

もうすぐ30歳、親にこれ以上心配かけられない、との思いから

「もうあきらめようかな」とつぶやく。

彼女ができず、結婚相談所に登録し、何人もの人と会うも、進展しない、

「これはもう結婚するのあきらめろ、ってことかな」と自嘲する。

そんなときに使う「あきらめる」という言葉は、

ユメを捨てる、目標達成を断念する、という意味で使われ、

ネガティブな意味合いを持ちます。

 


逆にあきらめない姿勢こそポジティブであり、

あきらめない人が強い人であり、道を切り開ける人だと賞賛されます。

スラムダンクの安西先生の名言の、

「あきらめたらそこで試合終了ですよ」のように、

あるいは成功者を追う番組でも

「あきらめない」姿勢が視聴者の感動を誘います。



さてこの「あきらめる」という言葉、実は仏教由来の言葉です。

それどころか仏教の根幹をなすとても大事な教えが「あきらめる」ということなのです。

仏教はあきらめる教えである、といえます。

「あきらめる」という言葉が今日の意味ではネガティブな響きがあるので、

仏教は残念な教えなのかと受け止められる人もありますが、

本来「あきらめる」とは、大変ポジティブで力強く人生を切り開く思考なのです。

 


では仏教本来の意味での「あきらめる」とは、どんな意味なのでしょうか。

「あきらめる」とは漢字で「諦観」と書き、

諦はインドの原語「サットヤ」で、真理、明理ということです。

観はミルということですから、

諦観とは「アキラカニ真理ヲミル」ということなのです。

 

この「アキラカニミル」の仏語が次第に変化して

「アキラメル」になりました。

ところが言葉がこのように変わっただけならよかったのですが、

その表す意味までが変わってしまったのです。

 

本来の「あきらめる」とは

【なぜそんな結果になってしまったのか、その原因を明らかに見なさい】

ということです。

先ほどの例でいうなら、

司法試験に合格できないという結果には、

必ずそうなるにいたった原因がある、ということですから、

その原因は何か、ここを徹底的に見つめることを「諦観」というのです。

あきらかに見た結果、勉強の仕方に問題があったとわかれば

そこを変えれば、次回の結果は大きく変わったものとなるでしょう。

これが本来の意味での「あきらめた」人の態度なのです。

 

悪い結果が起きている時に「なぜそうなってしまったのか」

その原因を反省するのは痛みの伴うことですが、

そこから目をそむけずに、八つ当たりせずに、

あきらかにみていこう、というのが「あきらめる」という意味ですから、

大変ポジティブな言葉であり、

人生を切り開く大事なポイントを示す言葉です。

 

 

 

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