【かなしきかなや(2)】
親鸞聖人は「天神地祇をあがめている」ことを
「かなしきかなや」“嘆かわしいことだ”と書き残されています。
「天神」とは天の神、「地祇」とは地の神です。
日本人は何しろ「神」と名が付くものがあると、
手を合わさないとバチが当たる、とでも思うのか、
毎年正月になると神社に行って頭を下げ
クリスマスには教会で神を称える賛美歌を歌い、
ちょっと形のいい岩や大木があると神が宿っているとし、
しめ縄貼って、これまた頭を下げています。
中には仏教の僧侶でありながら「神仏一体」なる経典にはない言葉を振り回し、
「神社に祀られている神も仏と一緒」と吹聴し、
「何であれ手を合わせることはいいことだ」と放言する始末です。
お釈迦さまは仏教を学ぶ者に対して
「天を拝することをえざれ、鬼神をまつることをえざれ」
と般舟経にて諭されています。
それで親鸞聖人も
「天神地祇をあがめるな」「天地の鬼神を拝するな」
と教え、徹底されました。
おそらくこう書くと、「えっ、親鸞聖人がそんなことを言われているって、ホント!?」と
今でも多くの人が問い質したくなるでしょうが、
神の不拝の厳しさは、親鸞聖人晩年の善鸞義絶事件でも明らかです。
神に仕えて祈祷し、他人の吉凶を占ったりして人々を迷わせた長子・善鸞を決して許すことはできぬと、
聖人は悲憤の涙とともに義絶なされています。
「あさましさ、申すかぎりなければ、いまは親ということあるべからず。子と思うこと、おもい切りたり、悲しきことなり」
断腸の思いで記された義絶状が今に遺ります。
この親鸞聖人の教化は、500年後の江戸中期の親鸞学徒にも浸透していたと見られ、
有名な儒者・太宰春台が、著書でこう驚嘆しています。
「一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専にして、他の仏神を信ぜず、
如何なる事ありても祈祷などすること無く、
病苦ありても呪術・符水を用いず、
愚なる小民・婦女・奴婢の類まで、皆然なり、これ親鸞氏の教の力なり」
当時はコレラやはしかなどの疫病は、悪霊、鬼の仕業だと信じられていました。
ウィルスの存在など毛頭知らなかった時代ですから無理もありません。
かかったら最後、かからないようにするための魔除けの札を家に貼り、神頼みの祈祷をしていました。
また気象衛星もなかった時代ですから、干ばつも天の神によるとに信じられ、雨乞いの祈祷をし、
台風は風神、雷神が暴れていると信じられ、これまた祈祷。
そんな時代に祈祷や呪術にたよらぬ浄土真宗の門徒の暮らしぶりは、
大変希有だったようで、驚きの目で見られたことがわかります。
ところが今の時代、この情報社会でどうしたわけか、
浄土真宗の門徒は神社への初詣や合格祈願、交通安全の祈願、厄年の厄除け、家を建てる時の地鎮祭などのオンパレードで、
まったくと言っていいほどこの親鸞聖人の教えが伝わっておりません。
「かなしきかなや」と親鸞聖人が嘆かれたのは、
決して当時の人だけではなく、今日の私たちに向けられている、といえましょう。
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