親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

快楽のかげにも無常の響きがこもっている

f:id:kikuutan:20200104111528j:plain

 

【快楽(1)】


コカインなどの違法薬物は、

理性を司る大脳皮質よりももっと脳の真ん中にある中枢に強烈な快感をドカンとすり込むそうで、

理性でやめようと思っても、やめられる代物ではないようです。

一瞬にして多幸感、爽快感が心身共にぱーっと広がり、

一気に不安は除去され「人生最高!!」となります。

しかしその快感は薬の効き目がなくなるとすぐに消えてしまい、

その後は長い倦怠感、イライラや不安が続き、

さらに薬物の快感を渇望するようになります。

 

薬物依存の恐ろしさはラットの実験でよく知られます。

ラットの脳に電極をつけ、ペダルを押すだけで興奮の感覚が生み出せるようにし、

美味しい食べ物をもらうかペダルを押すか、ラットたちに選択肢を与えると

ラットはひたすらペダルを押し続け、とうとう空腹と疲労で倒れてしまうというのです。

 

田代まさしが、覚醒剤依存症の恐ろしさを訴える講演で

「覚醒剤があれば何でもできる気持ちになった。やがて覚醒剤がないと何もできないようになった」

と実体験を語りましたが、

彼にとって「何もできないようになった」と語ったそれは、

決して過去形で語れるものではなく、

今なお「何もできない」自己に苦しむあまり、またも手を出してしまうものだったようです。

 

依存は薬物だけではなく、

アイスクリームやコーラなどの糖分、パチンコや競馬などのギャンブル、中毒性の高いゲームなども、

強烈な依存性があると指摘されています。

これらの快感は経験するとその一瞬の感激が忘れられず、

パチンコやゲーム機や炭酸ジュースのない生活の不快感は耐えがたく、

他の何をやっていてもつまらなくイライラして、もうそれなしの生活は考えられなくなります。

 

このように快感依存の実態を知らされると、

人間にとって幸福とは何なのか、わからなくなってきます。

至福の瞬間、胸躍る感覚、といっても、それを多く経験すればするほど、

不快感の耐性が下がり、快感への渇望が募っていくならば、

それは幸福と呼べるものではなかったことになります。

幸福は快感とは違うのか。

違うのならどう違うのか。

快感の追求は実は苦しみの元に他ならないなら、

いったい幸福とは何なのか、

考えさせられます。

 

その昔、シッダルタ太子(のちのお釈迦さま)は

出家を止めようと説得しにきた5人の家臣に厳然とこう言い放たれました。

ーーーーーーーーーーー

お前たちにはわからないのか、あの激しい無常の嵐がまだわからないのか。

ものはみな常住しないのだ。

いずれの日にか衰え、いずれの日にか亡ぶのだ。

快楽のかげにも無常の響きがこもっているのだ。

美女の奏ずる絃歌は欲をもって人を惑わすのみだ。

三界は悩みのみ。猛き火の如く、浮かべる雲の如く、幻や水泡の如し。

若きを愛すれど、やがて老いと病と死のために壊れ去るのだ

ーーーーーーーーーーー

太子の火の玉のような求道心に心打たれた家臣たちは、

ともに太子のそばで修行に打ち込むようになった、と伝えられてます。

シッダルタ太子の言われた「快楽のかげにも無常の響きがこもっている」の言葉が重く響きます。

やがて消え去る快感や快楽は幸福とはいえない、

無常の嵐を前にしても微動だにもしない安心満足こそ目指すべき真の幸福ではないか、

と城を出て入山学道されたのがシッダルタ太子でした。

 

 

=========


仏教の教えをわかりやすく体系的にお話する

20回の無料メール講座好評配信中。