【聴聞(3)】
浄土真宗中興の祖、蓮如上人が「仕事をやめて仏法を聞け」と言われたのはなぜか、
先回、先々回に続き、今日もお話しします。
「仕事をやめて仏法を聞け」といわれ、
その通りでございます、と答える人は誰もいません。
「仕事やめたら生きていけんでないか、ムチャクチャなこと言うな」とあきれるか、
汗水流して生計を立てて家族を支えている人からすると、
庶民の生活も気持ちも知らない者の言い草、としか思えないでしょう。
しかし考えてみてください。
もしあなたが、今晩までの命となったらどうでしょう。
「そうなったら仕事どころでない。だいたい明日の命もないのに働いても仕方ない」
となるのではないでしょうか。
ということは蓮如上人の『仕事やめて聞け』のお勧めに、
「そんな無茶な。できん」と反発するのは、
『明日はある』『まだまだ生きておれる』という固い信念が、
そう言わせているといえます。
毎日、世界で15万人が死んでいます。
いつの日か、その15万人の中の一人に自分が入る時が必ず来ます。
それがなぜ「明日ではない」と保証できるでしょう。
私たちの『明日はあるに決まってる』と頑として揺るがぬ信念は、
何か根拠があるのでしょうか。
親鸞聖人はご両親の突然の死を縁とされ、
その『明日あり』と思う心の迷いに気づかれた方でした。
それが9歳で出家された時に詠まれたこの歌です。
『明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは』
“今は盛りと咲く桜の花も、夜中に吹く一陣の嵐で、見るも無惨に散ってしまう。
人の命は桜の花よりもはかなきもの。
どうか明日とは言わず、今日出家得度の式を挙げてください”
激しい無常の嵐を知らされ、じっとしてはおれないと、
仏道に入られた親鸞聖人の強いお気持ちをこの歌に知ることはできます。
盲目的に『明日あり』を大前提に生きるのと、
『今日限りの命かもしれない』と受け止めるのと、
そこが大きな人生の分かれ道です。
誤った信念は、誤った人生にしか導きません。
「明日なき命かもしれぬ」と己の生の不安定さにまじめに目を向けた時、
「今日何をすべきか」
「いや、今は何をすべきか」
真剣な答えが迫られるのです。
蓮如上人はその答えをズバリ
「それは仕事ではない、仏教を聞くことだよ」
と教えられました。
それが「仕事をやめて仏法を聞け」の一節なのです。
ここでまた「なんで最後の一日ですべきことが仏法なんだ」という声が聞こえてきそうです。
今日が最後の一日だったら何をするか、の問いに
ほとんどの人が用意する答えは、
「お世話になった人に感謝の意を伝える」
「人生で一度は行きたいと思っていた○○に行く」
「好きな人と一緒に楽しく過ごす」
といったものでしょう。
なぜ蓮如上人はそういったことではなく、
人生最後の一日、臨終となった時、「仏法を聞け」と言われたのでしょうか。
それは「この一瞬の命、生きている今、何を果たさなければならないのか」
明確な答えが説かれているのが仏教だからです。
だから蓮如上人は
「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし。
世間の隙をあけて法を聞くべきように思うこと、浅ましきことなり。
(仏法は仕事を辞めて聞きなさい。
仕事の合間に仏法聞こうと思うのは浅ましい事ですよ)
と書かれた後に
「仏法には明日ということはあるまじき」
(仏法に明日はないのですよ)
と続けられているのです。