【業力(1)】
私がメルマガを書き始めたのが2010年のちょうど今ごろですから、もう10年近くになります。
早いものです。
こうして情報発信を続けていると、さまざまな方から感想、意見をいただきます。
メッセージでくださる方もあれば、
他の方も閲覧できるコメントで送ってこられる方もあり、
その言葉にいつも励まされ、学ばせていただき、
私が発信を続けるモチベーションになっております。
一方で数は少ないですが、中にあからさまな非難中傷のメッセージ、コメントもあります。
それも正鵠を射るご指摘なら耳痛く学ばせていただきますが、
的違いも甚だしいものもあります。
「そういうことではないですよ」と送信者に返信しますが、
文章からして、人としての礼儀を欠くというか、
もし実生活の場でこんな物言いを人にしていたら、
健全な人間関係はおろか、仕事もままならないだろうという文面で送ってくる人もあり、
そういう文章は相手にしないこともあります。
そういうのを送ってくる人はどういう気持ちなんでしょうね。
「なんだ、この言い方は。オレを身内とでも思っているんかい」と言いたくもなる文章。
(私は身内でもこんな物言いは絶対しませんが)
なにしろ当たり散らすような高飛車な文面だったり、
ここでも書きたくないような、いわゆる露骨な悪口です。
おそらく送信してくる人は実生活において、面と向かってはそういう言い方をしない人だと思うのです。
それがネット上では言えてしまう、言っても構わないと思えてしまう、
というのは、どうしてでしょうか。
私はかつてある芸能人のことを「○○○○、氏ね」とネット上で書きまくっていた人と実際に会って話したことがあります。
話をすると物腰も柔らかく、仕事もできるし、奥さんと二人の子供さんも育てられ、しごくまっとうな人で、
「なんでこの人があんな言葉を」と意外に感じました。
「ネットの人格は現実の自分とは違う、きちんと切り離しているから」
という趣旨のことを言われるのですが、
それは違うだろうと思ったので反論しました。
「言葉で発したら残りますよ」と。
これは、ネット上にはいつまでも「履歴」として残って、
それが本人だけでなく、その人の親や子供、孫まで検索すれば見ることになってしまう、
ということを言いたかったのではありません。
もちろんそういう恐ろしさも自覚しなければなりませんが、
私が言っている「残る」とはそういう意味ではなく、
「発信したその人に残る」ということです。
これは仏教の教えからそう言えます。
仏教では私たちの行いを業(ごう)(カルマ)といい、
人が知る知らないは関係なく、それは業力となって自己の中に蓄積すると説かれています。
口で発した言葉も残ります。
ネット上では、現実の生活では口にできないような汚らしいことや醜いことを書き込んだって大丈夫だ、
名無しさんだし、ポンと遠くへ放ってそれっきり、
その日のストレスを発散しただけだ、と思っているかもしれませんが、
書き込んだ言葉は、どんなささいなつぶやきでさえ、
発信されると同時にその人の内部に残ります。
自己の発した「氏ね」という言葉は、書き手の中に蓄積して、もう消えないのです。
そう書いてかまわない、書いてやろう、という感情とともに。
そして溜まり、積もった言葉の重みは、いつかその発信者自身を変えていきます。
どんな形で発信しても、発信した本人と切り離すことはできず、
必ず本人に影響を与えずにはおきません。
裏アカウントを使ったり、IPアドレスを変えたり、いかに巧妙に正体を隠そうとも、
他の誰でもない発信者自身はそれが自分だと知っています。
人は知らなくても、自分だけは知っています。
これを書いたのは自分だ、と。
誰も自分自身からは逃げることはできません。
その言葉が業力となってその人に影響を与え、人格と人生を変貌させていくのです。
PS 今年は動画に力を入れます。
ユーチューバーになるわけではありませんが、こんな便利なもの、使わない手はありません。
文章と二刀流でどんどん仏教の教えを伝えてまいります。
文章で伝えた方が伝わること、動画の方が伝わること、それぞれあることがだんだんわかってきました。
ぜひ文章と同時に動画で視聴してみてください。
こちらから入れます。
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よろしくお願いいたします。