親鸞に学ぶ幸福論

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苦悩の元を抜く仏教

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【抜苦与楽(3)】


腹痛患者が病院に駆けつけた時、まず医者がするのは診察です。

診察もないまま、いきなり注射を打ったり、手術したりはしません。

腹痛を引きおこした原因が分からぬままでは、的確な治療はできないからです。

同様に、私たちが幸せになるためにまず大事なのは

「私を幸せにさせない原因は何か」苦しみの元を正しく知ることです。

人生を苦に染める元凶は何か、正しく見きわめ、

それを取り除いてこそ真の安心・満足が得られます。

苦悩の根元の究明こそ、人類最大の急務である、と仏教が説くのはそのためです。

 

では「あなたを苦しませる原因は何ですか」と人に尋ねれば、

どんな答えが返ってくるでしょうか。

「金がないからだ」「病気だからだ」「こんな人と結婚したからだ」「才能がないからだ」「こんな性格だからだ」.....

苦しみの原因をこれらのものだと見定めて、

何とか無くせないか、せめて軽減できないかと、

日夜努力をしているのが、私たちの毎日の生活といえましょう。

 

ところが仏教ではこれらの苦しみは「苦しみの枝葉」であり、

「苦しみの根元」ではないと説かれているのです。

「枝葉だって?バカを言え、カネがないのがすべてのつらい人生の原因なんだ」

「この病気のためにどれだけ人生、損をしてきたか、枝なんかでない、苦しみの元だ」

と私たちには金がないことや、病気であることや、配偶者のことや、性格や才能が苦しみの原因としか思えないのですが、

お釈迦さまはそれらは全部苦しみの枝葉だよ、と説かれています。

 

なぜこれらが枝葉だと言われるのか。

それは枝葉は切っても切っても、またあちこちから生えてくるように、

私たちの人生におけるこれらの苦しみも、一つ乗り越えてヤレヤレと思う間もなく

「一難去ってまた一難」で、思わぬ苦しみが次々と現れるからです。

 

ある女性が夫の暴力で苦しんでいた。

「いっそ別れなさい、まだあなたは若いのだから」と心配して周りが忠告しても、

なかなか女性はその一歩が踏み切れないでいる、そんなケースはよく耳にします。

夫が原因で苦しんでいるのなら、離婚すればいいのに、と傍から見ると思いますが、

なぜ奥さんは躊躇するのでしょうか。

 

それは、別れれば夫の暴力という苦しみはなくなりますが、

今度は、女手一つで二人の子供をどうやって育てればよいかという、

また今までとは違った苦しみがのしかかってくるのが分かるからでしょう。

たとえ思い切って離婚し、昼も夜も働いて経済的に何とかなる目処が立ったとしても、

今度は仕事の無理がたたり、病気になる、という苦しみが襲うこともあります。

 

苦しみの枝葉をやっとの思いで切ると、今度は違う方向から生えてくる。

その枝を切ると、また思わぬところから生えてくる。

枝葉を切るのも一苦労だし、

どうせまた生えるのなら、このまま目をつぶって生えたままにしとこうか、と投げやりにもなる。

切っても生え、切っても生え、色や形を変えて現れる悩みにあれこれ対処しているうちに、歳取って死ぬ。

それが人生なら、人間はなんといったらいいでしょう、

苦しむために生まれ、苦しむために生きる存在になってしまうではないですか。

 

ではなぜそうなってしまうのか。

それはただ一つ、苦しみの根元を知らないからです。

枝を伸ばし、葉を茂らすのは、養分を根っ子から吸い取っているからです。

枝を一本切ったところで、根元からしっかり養分を吸い取っている限り、

他の枝葉が成長していくだけです。

ちょうどそのように一つの苦しみを乗り越せたところで「苦は色変わる」で次から次へと苦しみが出てくるのは、

苦悩の根源があるからなのです。

この本当の苦しみの原因を知り、それを取り除いたときにこそ、

「この身になるための人生だったのか」と

真の幸福になれます。

その苦悩の根源を徹底究明されたのがブッダであり、

ブッダの教えは、その苦悩の根源を断ち切る教えです。

 

 

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