【精進(1)】
19世紀は工学者が世界を動かし、
20世紀は物理学者が世界を変えた。
では21世紀はというと、識者たちは「数学者の時代だ」と口をそろえます。
車や飛行機の開発に携わる工学が表舞台だった19世紀や、
原子力や半導体など物理学が脚光を浴びた20世紀には、
数学者という存在は象牙の塔の住人でした。
「あなたの頭脳を工学に生かせば、物理学に用いれば」と惜しまれ、
「そんなことをしていて世界に何か貢献するのか」と冷笑され、
実益のない個人的関心を追うロマンチスト・変人扱いだったのが、
AI(人工知能)・ビッグデータ時代の現在、その立場は一変しました。
「役に立たない」純粋数学が何百年も経て、
とても大きな役割を担うようになり、
今やどの国も優秀な数学者を確保せよ、育成せよ、と躍起になり、
彼らは時代の寵児となったのです。
日本の数学界は世界でも優秀で、
このたびも有名な数学の難問「ABC予想」が、京大の望月新一教授によって証明され、世界に絶賛されました。
「今世紀、数学界で得られたいかなる業績より数段上の成果だ。この成果は何百年後にも記憶され続けるだろう」(英フェセンコ教授)
「私は世紀の大偉業だと思っている。ノーベル賞を1つや2つあげても足りないくらいではないか」(東工大・加藤文元教授)
「フェルマーの最終定理」(1995年解決)や「ポアンカレ予想」(2006年解決)の証明などと並ぶ快挙だそうです。
望月教授はすでに2012年に、構想から10年以上かけた646ページからなる論文をインターネット上で公開し、
これを用いればABC予想など複数の難問が証明できると主張していましたが、
それがなぜ2020年になって絶賛されているかというと、その論文があまりに難解で、
世界の数学者が査読(論文の内容チェック)するのに8年かかったからです。
それがこのたびその正しさが認められ、絶賛されるところとなりました。
ところが絶賛といっても、ほとんどの人は何がすごいかもわからないようです。
宇宙を複数考えるという構想があまりに斬新で「未来から来た論文」とも称され、
理解できた数学者は世界で十数人しかいないのですから。
顔を紅潮して賛辞する世界中の数学者の声に
私たちも「何かすごそうだぞ」と目を輝かせ、
「このたびのABC予想の証明により世界にどんな影響を与えるのでしょう」と尋ねると、
数学者たちはこう答えます。
「今はありません」。
「えっ、じゃ何がすごいの」と戸惑いと失望を見せる私たちの様子に
彼らは苦笑して「数学とはそういうものです」と。
数学の発見は将来の人類にイノベーションを与える可能性があるものであり、
例えば今我々が持っているICカードの技術は、
18・9世紀にかけて導き出された楕円関数論に基づいているとのこと。
だから今回の論文も人類にどう貢献するのか、難しすぎて予測すらできないのだそうです。
以下は吉川英治の言葉です。
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あれになろう、これになろうと焦るより、
富士のように、黙って、
自分を動かないものに作り上げろ。
世間に媚びずに
世間から仰がれるようになれば、
自然と自分の値うちは
世の人がきめてくれる。
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数学者の「今はありません。数学とはそういうものです」との言葉に、
富士山のように泰然自若とした彼らの誇りが現れているように感じます。