【後生の一大事(2)】
「死んだらどうなるか」というテーマについては
さまざまな宗教思想があれこれ語っていますが、
所詮証明できないので、考えても仕方ない、
とこの問題を不問にしているのが現代人の姿勢です。
とはいえ死ぬのは100%、
ならば「死んだら私はどうなるのか」は、
ほかならぬ自身の将来なので、あれこれ考えてしまいます。
その考えの一つに「死んだら無」というのがあります。
有力な意見の一つに数えられます。
中には「死んだら無に決まってる」と言う人もありますが、
別に決まってるわけではありません。
学問の世界では、死んだら無なのか、有るのか、
これは結論が出ていないので、
死んだら無、だと決めつけるのは早計です。
科学的、学問的な態度とは言えません。
世界的に著名な脳外科医ペンフィールドは、
患者の露出された脳に直接、電気刺激を与えて
何を感じたかを聞くという、特異な実験を繰り返し
二十世紀の脳研究に画期的な成果を残しました。
彼ほど生きた脳に触った人はいないといわれたペンフィールドは、
生涯、「心」は全てニューロンの働きで説明できるという
「唯物論」の立場で研究を続けてきました。
しかし最後に彼は、脳と心は別だと考えるほうが、
合理的だという結論に達しています。
「脳の神経作用によって心を説明するのは、
絶対に不可能だと私には思える。(中略)
私は、長い研究生活を通じて、
なんとかして心を脳で説明しようと試みてきた。
そして今、これまでに得られた証拠を
最終的に検討しているうちに、
人間は2つの基本要素から成るという説の方が合理的だ
と考えられることを発見して、
驚異の念に打たれているのである」
(『脳と心の正体』)
脳の研究に生涯を懸けた第一級の科学者が、
脳だけで心は説明できないと言っています。
「死んだら無」という意見は「そうかもしれず、そうでないかもしれない」ということであり、
あくまでも「その可能性もある」とのことで、
そういう点では「死んだら生まれ変わる」「死んだら天国」「死んだら何かの一部になる」など数ある選択肢の中の一つです。
その正誤は死んでみなければわかりません。
生きているときは絶対わからないから考えても仕方ない、
とみなあきらめてしまい、
考えると暗くなるだけだ、生産性がない、とも言います。
しかし人間にとって必ず向かう行先が真っ暗闇なのは、
決してどうでもいい問題ではありません。
気にするなと言われても、気にしないで済む問題ではなく、
気になってしまいます。
それどころかこの問題は私たちの「生」全体に得体のしれない不安の影を宿し、
底知れない虚しさ、さびしさ、孤独、恐怖を呼び起こしています。
この問題に「あきらめられない」と諦めて
敢然と立ち向かわれたのがシッダルタ太子、のちのお釈迦様でした。