「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いに答えはあるか、と
問題提起したブログを書いたところ、大きな反響がありました。
今日は多数いただいたコメントの中から、
さらに「人命の重さ」について考えてみたいと思います。
何人かの方から以下のようなコメントがありました。
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■「なぜ人を殺してはいけないの?」私なら「あなたは殺されたい
ですか?」とまず問いかけてみますねぇ。自分がされたくないこと、
嫌なことは自分以外の人も嫌なんです、だからしてはいけない。
■「あなたが人から切りつけられたら血が出て痛いでしょ。死ぬか
もしれないよ。だから人を切りつけ傷つけてはいけないよ。」
「殴られたり、切りつけられたりして殺されたら、やりたい事もで
きない、親孝行も出来ない、子供を産むことも育てる事もできない、
友達と遊ぶ事も、食べることも、仕事をすることも何にもできない、
第一、身体を焼却れて灰になってしまいこの世には存在しない。そ
んなの困るでしょ。だから、あなたも、自分が困るような人殺しは
してはいけない。」
「人は人とともに生きていくことで、この世の中をつくっているん
だから、その仲間を殺しては、あなたも生きてはいけなくなるんだ
よ」
とハッキリ教えてあげます。
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これは一つの答えの形でしょう。
小さな子供をしつける時に
「こういうことされたら○○ちゃんも嫌でしょ。
自分がされて嫌なことは人にしてはいけないよ。」とさとしますが
それと同じで効力を発揮する答えです。
人を殺したら、あなたが刑務所に入って
不自由な生活をしなければならなくなるよ、
場合によっては死刑になることだってあるんだよ。
いやでしょ。なら止めなさい。
という答え方です。
しかし問題はこれらの意見が、
先日の19歳の名大の女子大生の心に届くだろうか、ということです。
「死んでしまったら、やりたい事もできない、親孝行も出来ない、
子供を産むことも育てる事もできない、友達と遊ぶ事も、
食べることも、仕事をすることも何にもできないよ」
とさとされて、
「それは困る。親孝行したいし、子供産んで育てたいし、
仕事もしたいから、できなくなるのは困る。」
とすぐ納得する人もちろんいるでしょうが、
それで説得できない人も少なからずいると思うからです。
別に生きていたいとも思わない、
さっさと生きてさっさと死にたい、と
生きることに虚しさを深めてしまっている子供もいるのです。
以下はある若者の声ですが、
そうとう多くの若者の本音を代弁しているように思います。
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死ぬ理由はないが生きる理由もないし
死のうかなって思ってる。
バイク買おうかなって思ってるけど
お金たまるのにあと三ヶ月はかかるし
人生は早送りも出来ないし辛気臭いよね。
三ヶ月も面倒だから死のうかなって思ってる。
まぁどうせ死なないのだろうけど。
死ぬより事件を起こすタイプかもしれない。
イラっとして切れてしまいそうになる。
切れる理由もないのだけど。
なんもないんだよね。
なんもないからなんかあまりにもつまんなくて
切れてしまいそうになったり死にたくなる。
友達もいないし彼女もいないし。
つまんない人生だなぁ~
働いて働いて、やっと休みも暇で暇で、
また働いて働いて。。早送り出来ないかなぁ。
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日本の若者はきれると包丁やナイフですが、
アメリカでは銃です。
アメリカでよく起きる少年の銃乱射事件は、
たいていこめかみに銃を当てて自殺する、という結末です。
自殺する前に、自分の人生を無茶苦茶にした学校の教師を殺す、という暴挙に出るのです。
「人を殺したら警察に捕まるよ、下手したら死刑だよ」とさとしても
自殺しようとしている人には何の脅しにもなりません。
青少年の凶悪犯罪が起きると少年法改正の議論が出ますが、
たとえ改正されても『死んでもいい』と自分の命に虚しさを深めている子供に
どれだけの効果が期待できましょうか。
ここまでくると「なぜ殺人はいけないのか」と「なぜ自殺してはいけないのか」は
同義の問題です。
つまり『人命の尊厳の理由』が問われているのです。
命の重さの理由がわからなければ、尊重できなくなりましょう。
100万円の札束を暖炉の火に投げ入れる人を見れば誰しも
「あっ」と誰しも驚きの声を上げることでしょう。
「なんで!?」と胸が痛いでしょう。
古い新聞紙なら暖炉に入れても何の感慨もありませんが
札束を火の中に投げ込んで平常心でおれる人はありません。
たとえ人のものであっても
価値のあるものには
容易には捨てられないものです。
自分の命を
「どうせ自分なんかガラクタだから」
と無価値に感じている人が
人の命だけはかけがえのない尊厳なものと感じられるでしょうか。
『死んでもいいじゃん』の無知は
『殺してもいいじゃん』の暴論に変わります。
自殺、殺人、戦争、虐待
これらは根底に
「なぜ人命は重いのか」
「かけがえのない命と言われる根拠はどこにあるか」
という人間存在の根深い不安がただよっているのです。
この人間存在の不安に敢然と挑戦されたのが
シッダルタ太子(のちのお釈迦様)の入山学道でした。
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