親鸞に学ぶ幸福論

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夫婦は過去世、仇同士だった?

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【縁(1)】


「袖振り合うも多生の縁」ということわざがあります。

電車やバスで、たまたま隣に座った見ず知らずの人と

袖や肩が触れ合ったりすることがあります。

偶然に、そうなったと思われるでしょうが、決して偶然ではなく

その人と過去世から何らかの縁があったからですよ、

という意味です。

「多生」ですから過去世、

何度も生まれ変わり死に変わりしてきた魂の歴史の中で、

何度も会っては別れ、別れては会った、深い関係のあった、

因縁のあった人なんだよ、

そんな人だからこそ、今生で袖振り合うことがおきたのだよ、

というのが『袖振り合うも多生の縁』です。

 

袖振り合うだけでも、それだけのご縁があったことを思うと、

好きになり、好かれることになり、

お互い支えあったり、いがみ合ったりしながら、

人生の苦楽を共にすることになった夫婦というのは

これはもう、、、よっぽどご縁の深い人なのです。

「夫婦は過去世、仇(かたき)同士だった」と言われるほどです。

 

「ここで会ったは百年目、盲亀浮木(もうきふぼく)

優曇華(うどんげ)の花、いざ尋常に勝負勝負」

このセリフ、芝居や講談での仇討ちの場面の決まり文句です。

盲亀浮木(もうきふぼく)とは、

目の見えない一匹の亀が、大海に浮く一本の丸太ん棒の穴に

ちょうど首を入れることがあるようなもの、という意味で、

めったにないことを釈迦が譬えられたものです。

「優曇華の花」も、仏典に説かれている、

何千年に一度しか咲かない花のことです。

 

親を殺された侍が、仇討ちのために何年も剣の修行をして、

免許皆伝の腕を身につけた後、仇討ちの旅に出ます。

それから何年も何十年も探し歩いた末に、

ようやく親を殺した仇を見つけた時

「ここであったが百年目」の言葉になるのです。

 

見失ってしまい、会いたい会いたいと探し続けた相手に、

「今生やっと会えた」といえるのが、夫婦なのでしょう。

ほおっておけない相手だからこそ、

恋人・夫婦はケンカもするのです。

 

しかしどんなに深い縁でも「しばらくの間」のこと。

いつまでも一緒にはおれません。

今日あって、明日どうなるか判りません。

悲しいことですが、いつかは別れていく相手です。

いや、だからこそ、

「今、かけがえないこのご縁を大切にしていこう」

と育む気持ちが生まれるのでしょう。

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