【生死の一大事(2)】
最近東京の友人と、彼の住むA区(東京23区の一つ)の商店街で二軒はしごしてご飯食べたんですが、
一軒目で横で飲んでいるおじさんが
「ついにA区でもコロナ感染者が出たよ。保育士だって」と言うのに、
一同「へえ」「ついにここもか」と話題になりました。
そこで二軒目では今度は私たちが「ついにA区でも~保育士だって」と切り出し、
ここでも店にいた一同驚き、その中で一人「そうそう、オレも聞いた」という人もあり、
またも話題になりました。
ところが翌日テレビで見ると、なんと感染者は隣のB区の保育士であり、
A区ではなかったのです。
「なんだよ」と友人と顔を見合わせて苦笑した次第ですが、
今回のコロナ騒動では、
「お湯を飲むと菌が死ぬ」といった情報のSNS拡散とか、
トイレットペーパーの買い占め騒動とか、
デマ情報に振り回される現代社会の危うさを改めて知らされました。
人間は時間が経つと情報自体は覚えていても、
「どこから得たか」は忘れてしまいます。
新聞などの世界では「ウラをとる」との言葉もあるように、
情報源が確かか、細心の注意を払いますが、
日常生活の会話では、けっこういい加減なものです。
特に不安が強い状態、命に危険が及ぶようなリスクに関する情報は、
感情的に正しいと判断してしまう傾向が人間にはあるようです。
さてここで考えてみたいのは、
なぜこのたびのコロナウィルスのような時に、私たちはかくも大騒ぎするのでしょうか。
実は人間が激しく問題視し、感情的になる諸問題の根底に「死」があります。
思えばこのたびのコロナ騒動とて、
感染者で死亡する人が出てきているので世界中が大問題にしているのであり、
水虫のような死なない感染症ならこんな大騒ぎはなかったはずです。
致死率が高いから、オリンピックが延期になるほど、世界中は問題にしているのです。
他にも人類が恐怖し、対策を講じようとしている数々の諸問題を挙げてみてください。
癌、エイズ、北朝鮮の核ミサイル、南海トラフ地震、世界恐慌、脳梗塞、原発事故、テロ、通り魔……
これらの共通項は何でしょうか。
ぼーっと浮かび上がって見えてくるのは「死」です。
人間が慌てふためいているのは、本当は津波や放射能ではなく、「死」なのです。
ただ「死」そのものは圧倒的で、得体の知れない恐怖なので、そこには目を背けるしかありません。
解決できようもないことですから。
「そんなこと暗くなるから考えないようにするしかない」
とかたくなに忘れるようにしています。
しかし100%訪れる、刻一刻と近づいてくる不安はいかんともしがたく、
その不安を少しでも軽減すべく、
癌とかコロナだの核ミサイルだの、死にオブラートをかぶせたものと対決している、
のが人間の営みといえます。