親鸞に学ぶ幸福論

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人命軽視の権力者の横暴

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【人身受け難し(1)】


米軍の無人偵察機をイラン軍に撃墜されたトランプ大統領が、その報復としてイランの基地爆撃を計画した際、犠牲者が150人になると聞き、無人機への報復としては不釣り合いだと判断し、攻撃開始の10分前に中止を決めたことがありました。

米軍のドローン一機が150人だと不釣り合いだとしたら、何人だったら釣り合うと、彼は考えたのでしょうか。

そもそも人の命を、報復の釣り合いという枠組みで語ること自体、人命を頭数としか見れない為政者の横暴です。

実に嫌な気持ちがする報道です。

 

太平洋戦争のインパール作戦での作戦会議の様子が、会議に出席していた齋藤博圀少尉の回想録にこう書かれています。

「司令官から作戦参謀に“どのくらいの損害が出るか”と質問があり、“ハイ、5,000人殺せばとれると思います”と返事があった。最初は敵を5,000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした」

大局を見て計画を立てる上層部は、そういう見方をしてしまうのは仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。

しかし「何千人殺せば、どこがとれる」なんて言葉は、その何千人の人とその家族の気持ちを少しでも汲み取る気持ちがあれば、言えないことではなかろうか。

 

小さいころ観た戦争ドラマで記憶に残っている場面があります。

玄関先で役人より夫の戦死の報を受けた若い妻が、その場で思わずしゃがみ込んでしまうのです。

ところが妻はすぐにやがて立ち上がり、役人に非礼をわび、あいさつをする、という場面でした。

こうした「無言の帰還」は、名誉の戦死とたたえられた時代でした。

各地で盛大な市町村葬が行われ、戦死者を出した家には「誉れの家」の標識が掲げられ、誉れの家らしくふるまうことが求められたので、家族は人前で悲しむことは許されませんでした。

戦死公報を手に、涙をこらえ、その死を受け入れるしかなかったのです。

 

作戦参謀が「5,000人殺せばとれる」と口にする、その5000人はそれぞれ一生懸命生きてきて、これからも生きたい気持ち一杯であり、さらにはその無事の生還を自分の命を変えてでもの思いで念じている家族がいました。

そんな人たちの命を預かる、という自分の立場への痛みがあれば、「何千人殺せば、どこがとれる」などという言葉は出てこないはずです。

 

権力者の横暴はいつの世にも繰り返され、今なおそうですが、せめてそういう戦死者とその遺族の悲しみに想像力が及ばない者に権力を握らせたくないものです。

 

 

 

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