親鸞に学ぶ幸福論

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我が世誰ぞ常ならむ

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【諸行無常(3)】

 

いろは歌の「我が世誰ぞ 常ならむ」についてお話しします。

 

「我が世」とは「オレの世の中」「オレの天下」ということ。

人生で華々しい絶頂期を指して「我が世の春を謳歌(おうか)する」と言うように、

「我が世」とは「オレの天下」という意味のみならず

「オレの地位だ」「オレの金だ」「オレの女だ」「オレの才能だ」と

私たちが誇っているものすべてを「我が世」と言われているといえます。

 

私たちは何かを手に入れると「これはオレのだ」と幸せを感じますが、

その幸せはいつまで続くものだろうかと、

いろは歌の作者は「我が世誰ぞ 常ならむ」と歌っているのです。

 

金も、人も、健康も、才能も、若さも、美貌も、

一時は手にしていることを誇示し、満たされる気持ちにもなりますが、

いずれも諸行無常ですから、いつかは私から離れていきます。

いや、それを持っている自分自身も無常の身ですから、

どんな幸せも崩れ去ります。

 

平安時代、権勢を誇った藤原道長の、よく知られた歌に

「この世をば  我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の

  欠けたることも  なしと思へば」

とあります。

「この世の中は、オレの世の中だと思う。

 今宵の満月に欠け目がないように、

 オレの人生には、少しも欠点がないのだから」

 

この歌は、娘三人が后の位について、

磐石の権力を手中にした道長が

自宅で3日間にわたっておこなわれた

盛大な祝宴で歌ったもので、

まさに「我が世の春を謳歌した」道長の歌です。

 

ところが「我が世誰ぞ常ならむ」に例外はなく、

道長はこの歌を詠んだ翌年に重い病気にかかります。

糖尿病だったといわれていますが、

そこから眼病にまで進行していきました。

死をおびえて、剃髪して仏門に入りますが、死の不安が募り、

臨終には金色の仏像と、憔悴し切った自分の身体を

五色の糸で縛って、周り中僧侶に取り囲ませ、

読経させ、浄土往生を願ったといわれます。

 

「本当に仏様は浄土に導いてくれるのだろうか」

「死んだらどこへ行くんだろう。」

いよいよ臨終になったとき、たった一人ぼっちで

孤独と不安に苛まされる道長の姿には

幸せや満足はどこにも見当たりません。

 

このように諸行無常の世の中で支えにしていたものを失って迷い苦しむ人間の実態を

いろは歌は上の二行で

「色は匂へど 散りぬるを 

 我が世誰ぞ 常ならむ」

と喝破するのです。

 

そしていろは歌の後半の2行は、そんな苦悩多きこの世にあって、

本当の幸せが厳然としてあることを

「有為の奥山 今日越えて

 浅き夢見じ 酔ひもせず」

と示しています。

 

これはいったいどういうことか。

次回お話いたします。

 

 

 

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