親鸞に学ぶ幸福論

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浅き夢見じ酔いもせず

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【諸行無常(6)】
 

いろは歌について話を続けています。

今日はいろは歌の最後の一節「浅き夢見じ 酔いもせず」についてお話いたします。

 

先回、「有為の奥山今日越えて」とは、

いつ何が起きるかわからない不安、苦しみが続く人生にあって

現在ただいま本当の幸福になった、ということだとお話ししました。

そしてこの「現在生きているときに本当の幸福になれる」仏教の教えを

徹底して明らかにされたのが親鸞聖人だとお話ししました。

 

こう聞くと私たちは、

「生きている時に本当の幸せになんかなれるものか」

と疑いの心が出てきます。

「この世はどうにもならない、死んだら極楽、死んだら仏」

が仏教だと思っている人からすると、

とても受け入れられないことかもしれません。

 

いろは歌の作者もそういう反応が人々からくるのは見越していたのか、

最後の行に「浅き夢見じ 酔いもせず」と書いたのでしょう。

 

現在本当の幸せになれる、

生きている今、生まれてきてよかったと満足する、

と聞くと、私たちは

「夢心地でそんな気分になっているだけだよ、やがて喜びも冷めるよ」

「酒でも飲んで舞い上がってんじゃないのか、あるいは大麻でもやったか」

と思うだけで、とてもそんな境地があることを信じられません。

そんな大衆に向けてのいろは歌のメッセージが

「浅き夢見じ 酔いもせず」

浅い夢を見ているのではありませんよ、

酔っぱらってもいませんよ、

とあるのです。

 

夢を見ていない、酔っぱらってもいない、とは

現実をはっきり知っているうえで、本当の幸福があるとの宣言なのです。

夢を見ているとは、現実を知らないということ、

酔っぱらうというのも、現実を忘れている状態。

そんな世界が絶対の幸福ではありませんよ、ということです。

現実を直視したうえで、本当の幸福があるんだ、と言っている言葉が

「浅き夢見じ 酔いもせず」です。

 

では現実とは何か。

それが上の2行、

「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ」です。

諸行無常の世の中、

私の幸福を支えている一切もやがて崩れていく、

という佛説に説き明かされた現実を直視した上で、

その人生に「今、絶対の幸福になった」という心の世界があるのですよ、

と説かれているのがいろは歌なのです。

 

 

 

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