【生死の一大事(1)】
一休禅師は名の知れた室町時代の禅僧です。
特に私と同世代(40~50代)の方なら、
アニメの「一休さん」でお馴染みだと思います。
私の中での一休のイメージは、
あのつぶらな瞳で純真な「一休さん」だったので、
中学時代の歴史の資料集で一休の肖像画を初めて見た時
「えっ、これが一休さん!?」
といささかショックを受けたのを覚えています。
ふてぶてしい風貌で、それでいて眼光鋭く、反骨に満ちたその表情が、
どうしも私の中に一休さんのイメージと合わなかったからです。
しかしそれから仏教を学び、
数々の一休さんの残した歌や言動を知るにつれ、
やはり一休の本当の姿はあの肖像画の姿ではあっただろうな
と思うようになりました。
一休を表す言葉に「風狂」という言葉があります。
およそ僧侶らしからぬ破天荒な生きざま、
自由気ままに飄々と生きた一生がそう評されるのですが、
実は一休は「まじめな人だった」と言えるかと思います。
一休さんがまじめだって?と思われるでしょうが、
私たちの指す「まじめな人」と、
仏教の視点に立って指す「まじめな人」とは著しく違うのです。
世間一般で「まじめな人」と言えば、
学生時代なら宿題をちゃんとやって学校の先生の言うことをきちんと守る生徒であり、
社会に出れば上司の指示を素直に受け止め、きちんとこなす人、
そういう人が真面目な人ですよね。
しかし仏教でいう「まじめな人」とは、そういう人ではありません。
死をしっかりと見つめる人を、仏教で「まじめな人」と言うのです。
100%死ぬ、しかもそれはいつかも知れぬ、
このわが身の無常をしかと受け止めて今を生きる人が、まじめな人なのです。
「死んだら死んだときさ」
「そんな暗いこと考えてもない何の得にもならん」
「死ぬことなんて当たり前のことで、そんなこと聞いて何の生産性があるか」
と言う人ばかりです。
みな忘れている問題です。
つまらんことだと受け流しています。
しかし仏教では死のことを「生死の一大事」といい、
これを地震よりも、不況よりも、コロナよりも
「一大事」「大問題」であると説き明かします。
一休禅師の言葉に触れると、彼が生死の一大事をまじめに見つめていた人であったことがわかります。
アニメでは将軍や庄屋の無理難題に頓智(深い智恵学識)で答えていく姿が描かれていましたが、
彼がその頓智で何としても解決したいと取り組んだのは生死の一大事であったことが
彼の言動や残した言葉からも知られます。
こちらその一休の遺した言葉、言動を通してお話ししたYouTube動画です。
よかったらご視聴ください。
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