【生死の一大事(1)】
指名手配の犯人が、逃亡生活の末、ついに追い詰められ、
一軒の民家で人質を取って立て籠もる。
幾重にも取り囲んだ警察が
「無駄な抵抗をやめなさい」とスピーカーで説得する。
そんな場面では、さすがにもう逃げられないのだし、
これ以上抵抗してもよけい罪が重くなるだけなので、
犯人も覚悟を決め、自首すべきだろうと、誰もが思います。
ところが実は無駄な抵抗をしているのは、
警官に包囲された強盗だけではありません。
すべての人は無駄な抵抗を続けている存在だとブッダは教えられています。
なぜそう言えるのでしょう。
それは人間が「死にたくない」とあがき続けたあげく、最後には「死ぬ」存在だからです。
相次ぐ災害に、「自分の命は自分で守ろう」と声高に言われます。
8メートルの津波に蹂躙された大震災の教訓から、
10メートルの堤防を、と論じられますが、
たとえどれだけ堤防を高くしても、死ななくなるわけではありません。
難病克服のために、医師も研究者も懸命の努力を重ねていますが、
たとえ医学の進歩で長生きできるようになっても、一時的です。
自分の命を完全に守り切れる人は一人もありません。
政治も、経済も、科学も、医学も、人間の営みは全て、
少しでも長く命を守るためにあります。
しかし、それらを総動員したところで、
二百年も三百年も守り続けることはできません。
せいぜい百年足らず。
自分の命を守ろうと懸命に戦ったところで、結局みな死んでいきます。
「死にたくない」と抵抗を続け、あがき、もがいた末に
この世を去っていく私たちの姿をあからさまに言えば
「無駄な抵抗を続けている存在」なのです。
この人間矛盾に驚き、「そんな私たちがなぜ生きるか」を究明せんと
城を出られたのがシッダルタ太子(のちのお釈迦さま)の出家でした。
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