親鸞に学ぶ幸福論

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この里に親をなくした子はなきか【僧(3)】 

 

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【僧(3)】


まだ私が25歳そこそこの時のことですが、
寺の坊主が「あいつは俺のところに来ない。何の気になっとる!」
と腹を立てている場面を目撃してしたことがあります。

 

どうもよく聞いてみると、その寺の門徒ばかりのいる村で、
ある家に身内の不幸があり、
その家の主人が自分のところへ葬式の依頼をしてこなかった
ということに腹を立てていたのです。

 

これを聞いたときは
「そういうお前こそ何の気になっとる!」
と言い返したくなりました。

 

門徒を自分の財産のように思って、
葬式や法事を収入源のように思っていなければ、
そう言うセリフは出てこないからです。

 

親鸞聖人は流刑の地である越後の風雪の中、
寒中もいとわず一軒一軒、戸別に訪ねて回られたではないか。

 

当時の聖人の立場は流罪人。
余程のことがなければ、
そんな相手の話に耳を貸す人はないでしょう。

 

取りつく島もない応対になお忍耐強く聖人は、
一言なりと法を伝えんと、
また次の家、隣の村へと歩みを運ばれます。

 

「この里に親をなくした子はなきか 
 み法の風になびく人なし」

 

“親を亡くして世の無常を知らされ、
 泣いている子はこの里にないものか。
 稲穂が秋風になびくように、
 真の法を求むる人がない”
とのお歌にもその時のご苦労がしのばれます。

 

やがて心を開く人が一人二人と現れれば、
囲炉裏を前に無学文盲の村人たちに交じって、
根気よく、丁寧にお話し続けられました。

 

そのように胸から胸へと伝えてくだされたればこそ、
今日に続く脈々たる法流が形づくられたのです。
 


全国の村に、村人から支えられる寺ができ、
そこで法を説いて村人を勧化する責任ある僧侶があり、
今日があります。

 

来ないとは何事だ、と怒る資格はどこにもない。
どこの店に客が来ないことを客のせいにして
怒っているところがある?
みな商品やサービスを向上させて生き残るのに
一生懸命ではないか。

 

法を説かないから来られないだけでないか。
法を説いているとしたら、
その話が魅力ないから来ないのでないか。
そこを猛省しなければならない場面でしょう。

 

寺離れが進み、真宗は衰退の一途をたどっています。
親鸞聖人、蓮如上人の御徳の上にあぐらをかいて、
生活の糧にしている姿を今にして猛省しなければ、
寺も僧侶も跡形もなくなってしまうのではないでしょうか。

 

法を聞く人がいないのは、時代や場所の問題ではない。
偏にわかりやすく法を説けない自分の責任だ、と受け止め、
自分を変え、向上していくことが肝要です。

 

 

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