親鸞に学ぶ幸福論

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「難度の海を度する大船あり」と人生の目的を教えられた親鸞聖人



 

【生死の苦海(1)】

 


親鸞聖人は私たちの人生を

「生死の苦海ほとりなし」

と喝破されました。


生まれたなり、泳ぎ方も教わらないまま、大海に放り出され、

苦しみの波の絶えない海を、島も船も見えない中で、

必死に泳ぐしかない海のようなものが人生だ、

と言われているのです。

 

海面下は青黒い。

底のしれない深い海には、サメも泳いでいることだろう。

助かりたくてやみくもに泳いでも泳いでも、

空と海が広がっているばかり、景色は何も変わらない。

いったい泳いできたのかどうかも分からないほど、

同じことの繰り返し。

受験、就活、失恋、リストラ、人間関係、病気、

どこどこまでも果てしない苦しみの波に翻弄され、

やがて力尽きて溺死する。

こんな人生を『難度海』とも『生死の苦海』とも言われています。

 

波と必死に戦って泳いでいる人。

波の繰り返しに泳ぐのに疲れてしまっている人。

泳ぐのを止めようかなと思い詰めている人。

それでも惰性で泳ぐ人。

このように波を乗り越えるんだよ、とさとす人。

様々な人がいる。

 

しかし誰一人として

どの方角に向かって泳いだら助かるのか

方角を指し示す人がいない。

 

陸地なんかないんだよ、救助の船なんかもう来ないよ、

とあきらめに沈んでいる全人類に

親鸞聖人は、

「あきらめなくていいのだよ」と、主著『教行信証』の冒頭に、

 「難思の弘誓は、難度海を度する大船」

苦しみ悩みの人生を明るく楽しく渡す大きな船があることを

明示されたのでした。

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人生を俯瞰すれば、金持ちも不安で虚しい存在だ

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【無常(1)】


■金を持っている人は「番人」

持っていない人は「非番」です。

警備する門番は、侵入者を許してはならない責任があるから

居眠りは許されないし、トイレに立つこともできない。

非番になれば、気楽なものです。

ゆっくり寝ておれます。

 

■ちょうど金持ちは、金の番人のようなもの。

持っていると、銀行に預けても倒産しないか心配です。

箪笥に入れておけば空き巣が心配です。

株で持っておれば、常にインターネットの前で

市場の変動が気になって仕方がない。

非番の方がよっぽど楽ではなかろうか。。。

 

■いずれにせよ無常の世。

昨日までは番人でも、今日は非番になるかも知れない。

今年は非番でも、来年には番人になるかも知れない。

宝くじが当たり、非番だった人が急に番人になることもある。

あるいは事業に失敗して一夜のうちに、

番人が非番になることもあります。

人生まことに紆余曲折、いつ番人になるか、非番になるか、

今日、明日のことさえわかりません。

 

■ただ、いずれにしても言えるのは

【番人に過ぎない】ということです。

何も持たずに地上に出てきて、人と争ってまでかき集め、

必死に番をして、最後は全部置いて、

番人の役目終わって次の人に番を譲る。

それが人生です。

 

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己のまいた種しか、己に結果として表れない

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【因果の道理(1)】

 


「あなたの前世は○○だったんです。

 今のあなたは本来の処にいないから苦しんでいるのです。

 自分を責めてはいけない」

このように耳に心地よい言葉を聞かされ、

得体の知れない霊能者をすっかり信じ込んでしまうものです。

 

あるいは

「ニートで引きこもりの自分が

 一日1時間パソコンの前である作業をするだけで、

 月収40万円の生活をしています。

 その「ある作業」とは・・・・」

と一攫千金の成功話を聞かされて、

すっかりのぼせあがり、

多額の情報教材を売りつけられる人もあります。

 

【溺れる者はワラをもすがる】

苦しんでいる人を狙ってだまそうとする輩はあとを絶ちません。

釈尊の説かれた因果の道理を知れば、

己のまかない種が、己の結果となって降りかかることは

絶対ないと確信しますし、

楽して儲かる方法も絶対にないとわかりますので、

数々のだまし、誘惑にのせられなくなります。

 

「自分の欠点と誠実に向き合うほど困難なことはない、

 しかしすべてはそこからだ。」

と説かれる釈迦の教えは厳しいですが、

その眼は慈悲に満ちています。

 

人は呼吸するために生きているのではない、では何のために。

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【出世本懐(4)】


■「なぜ生きるの?」

「生きるためだよ」

「生きるために生きてるの?」

「そうだよ。文句あるか」

こんな掛け合いを何度か経験しましたが

文句大有りです。

 

■「何のために勉強しているんですか」

と聞かれて、

「希望の大学に合格するためです」

という答えなら理解できますが、

「勉強するために勉強しています」

では、ナンセンス、意味不明です。

 

■「なぜダンス教室に通っているの」

と尋ねて、

「あのステキな先生と踊れるから」

なら分かりますが、

「通うために、通っている」

では、トートロジー(同意語反復)で、

何も言ってないのと同じです。

 

■「生きるために生きる」のは、

ちょっと考えれば、

言葉の意味からもおかしいと分かるでしょう。

歩いている人も、どこかへいくために歩いています。

あるいは気分転換に散歩、運動のためというのもあるでしょうが、

少なくとも「歩くために歩いている」人は一人もいません。

 

■「歩くために歩いている」人、もしあらば、

その人の未来は【行き倒れ】あるだけです。

同じように「生きるために生きる」と強弁する人の未来は、

「死ぬ」だけです。

「生きるために生きる」とは、ほかならぬ

「死ぬために生きる」と言っているのと同じです。

 

■「人は呼吸するために生きているのではない。

 何かをする為に生きているのだ。」

とルソーは言いました。

その『何か』こそ、

真に一人ひとりが考えるべき命題でしょう。

仏教で「出世した」とは、どんなことなのか

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【出世本懐(2)】


出世本懐(しゅっせほんがい)とは仏教の言葉です。

出世、とは今日で使われるような

「彼は部長に出世した」というような意味ではありません。

この世に出てくる、ということで、

この世に生まれてきた、ということです。

 

私たち一人一人、この世に生まれてきて、今、生きています。

先回に引き続き、人生、を一つの部屋に例えます。

私たちはこの部屋のドアを開けて入ってきた時がありました。

誕生の時です。

もちろんその時のことは覚えておらず、

物心ついたら、すでにこの部屋の中にいたということなのですが、

昭和○年○月○日にこの部屋にお前は入ってきたのだよ、

と親から教えられました。

その日にこの部屋に入ってきて、今もこの部屋にいるのです。

しかし、この部屋にはいつもでも居続けることはできません。

誰しも、いつしかこの部屋を出ていかねばならない時を迎えます。

「死ぬ」ということです。

 

入ってから出るまで、人によって長短あれども、

この部屋にはみな限られた期間しか滞在できません。

それが人生です。

 

考えてみると、私たちはどこから来たのかわからず、

この部屋の中に入ってきました。

そしてしばらく部屋の中で

何かを手に入れて笑ったり、失って泣いたり、

悲喜交々のドラマを演じて

やがてひとりぼっちでこの部屋を出て行くのです。

出て行った先はどうなっているのか、これもわかりません。

 

どこから来たのかもわからず、

どこへ行くのかもわからない、

わかっているのは、今は人間として生を受け、

ここにいるという事実です。それが私たちです。

 

本懐とは、今日でも「本懐を遂げる」とか

「男子の本懐」とか使われます。

本当の願い、本当の目的ということです。

「出世本懐」とは、この世に生まれてきた本当の目的

人生の目的ということです。

私たちは何のために生まれ、何のために生きているのか、

なぜ苦しくても生きなければならないのか、ということです。

 

先ほどの部屋の例えでいうと、

何のために人生という部屋に入ってきたのか、

ということです。

みなさんは考えられたことはありますでしょうか。

 

ふつうは目的があってその場所に入るのです。

カラオケルームならカラオケするため、

床屋なら散髪のため、

目的があってその部屋に入るのです。

では私たちは人生という部屋になぜ入ってきたのでしょうか。

 

いや、気づいたら入っていたんだ、別におれの意思ではないよ、

といわれるかもしれません。

人間に生まれてきた意味もわからず、生まれてきた、

という点で、確かに床屋に入るのとは違うでしょう。

ではなぜ今もこの部屋に居続けるのでしょう。

何を成すためにあなたは、人生という部屋にいるのでしょうか。

ここではいろいろなことをすることができます。

勉強する、仕事する、家庭を持つ、子育てする、

マイホームを建てる、いろいろありますが、

これ一つ成し遂げるために私は生まれてきた、今生きている、

これ一つ果たしたらいつ人生を終えても大満足、

というものはありますでしょうか。

 

この部屋は苦しいことも多いのです。

決して鼻歌交じりで楽しく過ごせるところではないのはわかります。

そんな部屋になぜ居続けるのでしょうか。

こんな苦しいならいっそのこと出てしまいたい、という時でも

居続けているのは、何を成し遂げるためなのでしょうか。

これが「出世本懐」「人生の目的」ということです。

 

この出世本懐を成就した時、

「人間に生まれてよかった」

「生きてきたのはこのためだったのか」

「いつ死んでも大満足」

と生命の歓喜を味わうことができるのです。

 

私たちも仕事や家事に追われ、忙しい日常を送っておりますが、

時に足を止めて、「私の出世本懐とは何だろうか」

静かに振り返って見られてはいかがでしょうか。

 

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全ての人は夢遊病者のようなもの

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【出世本懐(1)】

 

仏教は「全ての人は夢遊病者のようなものだ」と説きます。

私たちには、町で歩いている人を見ても、

みな「何時までに駅に行かなきゃ」などと

目的を持って歩いていますから、とても夢遊病者には見えません。

なぜお釈迦さまは全ての人は夢遊病者のようなもの

と言われたのでしょうか。

 

私たちが生きているこの人生を、一つの部屋に例えてみましょう。

生まれた時が、この部屋に入った時です。

私たち一人一人、ある時「この世」という部屋に入りました。

いや、正確に言うと、物心ついた時には、もう部屋の中にいました。

親から「お前は○年○月○日にここに入ってきた」

と教えてもらったので、「その時、この部屋に入ったのか」と

学んだということです。

 

しかし親も、他の誰も、私がどこから来たのか、知りませんし、

なぜこの部屋に入ってきたかも知りません。

「それは知る必要の無いことだ、ここでとにかく過ごせ」

と皆言います。

 

この部屋で過ごすのはけっこう大変で、

努力しないとこの部屋は居心地悪くなり、

出ていかねばならなくなります。

いや、努力したところで、

結局はみんなこの部屋からは出て行かねばならない、

「部屋から出る」とは、「死ぬ」ということです。

好むと好まざると関係なく、否応なしに部屋から出る時が来る、

ということはつまり、この部屋で過ごせるのは

「有限」だということです。

人は皆、それぞれの期間、ここで過ごし、

やがてここを去っていくのです。

 

では私たちは、この人生という部屋から出たら、どこへ行くのか。

それも、誰も知りません。

皆に聞いても「知らなくていい」と言います。

考えても無駄なことだから不問にして、

とにかくこの部屋での過ごし方を考えよ、と言います。

つまり私たちはどこから来たのか分からぬまま、

しばらくの間、人生という部屋で過ごし、

いつかどこか分からないところへ行くのです。

 

夢遊病者に「どこから来たの?」と聞くと

「さあ・・」と首をかしげる。

「じゃ、どこへ行くの?」と聞くと「さあ・・」

「じゃ、どうして歩いているんだよ」と聞くと、やはり「さあ・・」

そういう人を夢遊病者と言いますが、

私たちもまた、どこから来たのか分からずに、この世にいる。

死んでどこへ行くのか知らず、この世にいる。

なぜこの世に生まれてきたのかも分からず、

なぜこの世にいなければならないのか、その意味も知らず、

何をしたら人生という部屋を満足して出ていけるのか、

何も知らないで、ただ生きている。

仏教はそんな私たちの姿を、夢遊病者のようだと説かれたのです。

 

みな夢遊病者のような迷いの真っ只中にある、

そんな中、その迷いの闇を晴らし、真の転迷開悟を教示されたのが、

釈迦の教え、仏教なのです。

 

「この人、魅力的だな」と思う瞬間の一つ

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【禅定】


仏教で教えられる六度万行の一つに『禅定』があります。

「禅」は「しずめる」、「定」も「定める」こと。

散乱する自分の心をしずめ、定めることをいいます。

人のことばかり「あいつが悪い」と非難する心をしずめる。

そして自分はどうか、と振り返る、ことです。

 

人に迷惑をかけて糾弾される時は

自分の人生にも幾度となくあります。

そんな時に

「おれだけじゃないよ!」

「あいつの原因のほうが本当は大きいのに 」

「どうやってたいした問題じゃないとごまかそうか」

こんな心が山ほど出てきます。

 

そんな心との戦いは今までの人生で何度も経験していますので、

人と接していて「この人、魅力的だな」と

心揺さぶられることの一つに、

心から謝罪している姿があります。

 

最近でもそういうことあったのですが、

自分の先輩が、ある失態をした時に、

何の自己弁護もされずに、後輩の私達に謝罪されたのです。

 

 

その先輩の直接のミスではないのに、

そこまでしっかりとされる姿に深く感動しました。

 

『迷惑をかけたら、素直に「すみません」と

 頭を下げられる人は、皆から仰がれる』

と聞いたことがありますが、本当だなとつくづく実感しました。

 

その先輩のように、歳を重ね、立場ができると

人に頭を下げさせることが多くなり、

逆に頭を下げられなくなってくるのが普通だと思います。

言い訳も責任転嫁も上手にできるようになるでしょう。

そんな人がいさぎよく、誠心誠意謝罪されるのに感動し、

同時に「お前にできるか!」と

頭叩かれたような気持ちになりました。

仏法者として、『禅定』に努めていきたいと思います。

 

 

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